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紫陽花の咲く道 9
「そっ宗吾さん、何でっ――」
座っていた椅子から転げ落ちる程、驚いてしまった。
「おいっ瑞樹、落ち着けって」
「で、ですがっ……っ」
突然現れた宗吾さんの姿に、呆気に取られてしまった。
心臓が止まるとかと思った。
宗吾さんは、本当に神出鬼没だ。
「あの、お客様のお連れ様でいらっしゃいますか」
女性店員ににっこり微笑みながら聞かれたが、僕はどう答えたらいいのか分からなくて、宗吾さんを縋るような眼で見上げてしまった。
一方、宗吾さんは、どこまでも堂々としていた。
「えぇ俺は彼のパートナーです。隣に座っても?」
「もちろんでございます」
あっ……今……僕のことを『パートナー』と言ってくれた?
なんだか公の場で、そんな風に紹介されるのは初めてで、驚いたし不安にもなったが……心の奥底では、とても嬉しかった。
「お客様、もう一度、パンフレットをご覧になりますか」
「いや、さっき彼が希望した指輪を見せてくれ」
「畏まりました」
動揺したせいで膝の上に置いた手が小刻みに震え出してしまった。
隣に座った宗吾さんがすぐに察知してくれ、僕の手を机の下でそっと握ってくれた。彼の手が重なると、その温もりに一気に心が落ち着いた。
「瑞樹……震えなくていい。この店は一流だ。この意味、分かるだろう」
「は、はい」
確かに、ここは銀座の一流店だ。店員さんも皆、一流の教育を受けている。
つまり男同士で結婚指輪を買いに来たからといって、異端児のように見られることはない。現に僕の担当の女性も、何一つ態度を変えず、顔色も変えずに接客してくれている。
有難いな。
僕たちの左手薬指のサイズを測って、指輪を目の前に並べてくれた。
「へぇ……現物は更にいいな。瑞樹、これでいいか」
「はい。あの……宗吾さんはどうして、このデザインが気に入ったのですか」
「あぁ、小指に向かって流れるカーブが美しいよな。まるで流れる水のように潤いのあるデザインが気に入った。俺たちらしいと思ったのさ」
驚いた! まるで僕の心の内側が見えているような言葉だ。
目を丸くしていると、宗吾さんが快活に笑った。
「また以心伝心だったか」
「はい」
照れくさいが、二人で試しに左手の薬指に付けてみた。
ここが個別ブースで本当に良かった。
「お客様、サイズは大丈夫でしょうか。フィット感はいかがですか」
水の流れのような曲線デザインが、指に馴染んで付け心地もよかった。
「しっくりしますね」
「あぁフィット感がいいな。もし何かに流されそうになっても、俺たちはこの指輪同士で繋がっているからお互いの元に戻って来られるという印象を受けるな。それに水をイメージさせる流動的なデザインもいい……俺にとっての潤いは瑞樹自身だ、君のイメージと合っているよ」
これも以心伝心だ。
でも猛烈に面映ゆい……!
「そっ宗吾さん、もうそれ以上は今、ここでは言わないで下さい……すごく恥ずかしいくなります」
ここはまだ店の中で、目の前に女性店員さんが座っている事を忘れてしまったように、宗吾さんが愛を熱心に語り出すから焦ってしまった。
チラッと様子を伺うと、目の前に座る女性の店員の頬まで、赤く染まっていた。
「なっなんだか小説のワンシーンのようで、ドラマチックでうっとりしちゃいました。このお店をモデルに書かれたシーンがあって。あっすみません。余計なことを」
「ふぅん、それって、例の流行りの小説?」
「そっ宗吾さん!」
耳まで赤くして俯いてしまった店員さんが、気の毒だ。
「すまなかった。でも、そんな風に言ってもらえて嬉しいよ。瑞樹この続きはロマンチックな場所で多いに語ってやるからな。そうだな……北鎌倉がいいな」
「はっ、はい……」
****
宝飾店の白い手提げ袋には、小さな箱が入っている。
宝石箱に仲良く並ぶのは、二つの指輪。
それは僕と宗吾さんの結婚指輪。
ふたりで選んで、ふたりで購入した。
帰り道、朝から降り続く雨はまだ激しかったけれども、僕の心はまるで雲の上を歩いているように、ふわふわとしていた。
「あの……どうして僕の居場所が分かったのですか。あのタイミングは流石に不思議です」
「あぁそれはだな……紫陽花が道案内してくれた」
「どういう意味ですか」
「これさ」
「あっ!」
さっきエレベーターで指摘された紫陽花のガク……
もしかして道にも?
でもそんな『まるでおとぎ話』のような出来事が、現実に起こるなんて信じられない。
「そう言う事もあるのさ。たまにはいいじゃないか。人生において今日は大切な日だったし」
スーツ姿の宗吾さんは、本当に素敵だ。
長身でしっかりした体つき、男らしく精悍な顔。
大人の街……銀座にあまりに似合うので、惚れ惚れしてしまった。
この人が僕のパートナーだなんて、嬉しくて堪らない。
僕はこの先も繰り返すだろう。
何度も何度も、宗吾さんに恋して好きになる。
「嬉しいよ。瑞樹」
「何がですか」
「こうやって一つ一つ、君と向かい合って、繋がっていく部分が増えるのが」
「あっ、はい」
「さっきも言ったが、指輪の交換は北鎌倉でしよう。きっと向こうは紫陽花が綺麗だろう。自然豊かな場所で、花が咲く場所で……君の指に贈りたい」
次の週末、僕たちは北鎌倉の月影寺に一泊する約束をしていた。
だからそれは本当にもう間もなくの、確かな現実だった。
「まだ……なんだか夢を見ているようです」
「おいおい、夢じゃないよ。これは現実だ」
「はい。幸せな現実です」
「そうだよ。瑞樹」
ちょうど帰宅ラッシュの時間だった。
最近、宗吾さんと帰りの時間が合うことがなかったので、下りの電車に一緒に乗るのは新鮮だ。
「おいで」
「はい」
車中で人混みに揉みくちゃにされながら、僕は宗吾さんの胸元に収まった。
家に辿り着く前に、一足先に彼に抱かれている心地になり、胸が高鳴った。
ラッシュは嫌いだが、宗吾さんと一緒ならいいかも……
「おい、瑞樹、あんまりくっつくなよ」
「あっ、すみません」
そう言いながらも、駅に着くたびに人が乗って来て密着が深まるばかり。
宗吾さんだから、安心できる。
(あーもう、瑞樹は可愛すぎる……)
誰にも聞こえない声が届いた。
以心伝心なのかな。これも……
文字や言葉を使わなくても、お互いの心で通じ合っている。
宗吾さんと僕は今──
(宗吾さんこそ、カッコ良過ぎます……)
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