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箱庭の外 15

「おにいちゃん、つかれちゃったよ」 「そうだよね。よし、背中にのって」  駅から芽生くんをおんぶして、マンションに戻って来た。  ここにまた戻って来ることが出来て、本当に良かった。  玄関を開けて、ようやく僕もホッとした。  靴箱の上の時計を見るともう零時近くになっていたので、救急搬送された病院に随分長い時間いた事になる。  お母さんとは明日面会出来るそうなので、今日は一刻も早く休んで備えないと。 「芽生くん、着いたよ」 「……」 「やっぱり、もう寝ちゃったよね。よいしょっと」  芽生くんの靴を脱がし部屋に上がり、そのまま宗吾さんの大きなベッドに置いた。 「ふぅ……ちょっと重くなったね」  背中の重みがなくなると一気に脱力し、ずるずると寝室の壁を背にしゃがみ込んでしまった。 「はぁ……疲れた」  怒涛の一日だった。  家の中に宗吾さんの匂いを感じると、まるで彼が近くにいるような気分になり、堪えていた涙が溢れて来た。 「う、ううぅ……」  泣くな、瑞樹──  泣いては駄目だろう。  だけど止まらない。  芽生くんを起こさないように、口元を押さえて密かに嗚咽した。   憲吾さんに怒鳴られた時、ハンマーで頭を殴られたようなショックを受け……一瞬どこに行けばいいのか分からなくなってしまった。絶望した。  そんな僕を、芽生くんが何度も何度も呼んでくれた。 『おにいちゃん、おにいちゃん……』  そう呼ばれる度に、勇気をもらった。  我に返る事が出来た。  僕がすべきことを思い出した。 「宗吾さん、僕……頑張りました」  宗吾さんがいない今、僕に出来ることを精一杯やった。  最初は憲吾さんの剣幕に恐れをなして、逃げ出そうとしてしまった。でも芽生くんが僕を呼び、更に花が……花が結んでくれた縁が、僕をあの場にしっかりと引き留めてくれた。 「それでも……宗吾さん、僕はやっぱり、あなたに会いたいです」  それが本音だった。  スマホを開くと、宗吾さんからの着信がずらりと並んでいた。メールも何通も届いていた。 『瑞樹、すまない。こんな時に君の傍にいないなんて不甲斐ない。兄に何か酷い事を言われなかったか。俺が事前に兄に君の事をしっかり説明しておくべきだった。兄との確執も……全部……俺が逃げていたせいで、君を苦しめていないか心配だ』    あぁ……ほら、やっぱり心配かけてしまった。  自分のお母さんが倒れたというのに、僕の心を案じてくれる優しい人。  宗吾さんらしい気遣いに、泣けてくる。  早く安心して欲しい。  僕は大丈夫。  ちゃんと僕たちの家に戻ってきていると伝えないと。  震える手で、返信を打つ。 『宗吾さん、お母さんは無事です。明日には面会できるそうです。僕も大丈夫です。先ほど芽生くんと家にちゃんと戻ってきました。だから心配しないで下さい。予定通り日曜日の帰国を待っています。仕事頑張って下さいね」  さっきまでの宗吾さんに今すぐ会いたい気持ちには……蓋をした。  日曜日の夜まで、まだ頑張らないと。    明日、芽生くんと一緒に病院に面会に来てくれと、憲吾さんから頼まれた。  彼も、最後には僕を信じてくれた。だからその想いに応えたい。 「う……」    芽生くんの寝息が規則正しく聞こえている中、泣きはらした目で辺りを見渡した。  宗吾さんがいないと、この部屋はこんなに広かったのか。静かだったのか。  寝室のベッドも、こんなに広かったのか。  当たり前だと思っていた日常は、少しも当たり前ではなかった。  変わらない毎日が、心から愛おしくなる。  お母さん……本当に無事で良かったです。  僕の3人目のお母さんを、失わなくて良かった。  まだ始まったばかりだ……僕たちの関係は。  それからさっとシャワーを浴びて、宗吾さんのベッドに潜り込んだ。  彼の枕に顔を埋めて、彼を恋しがる。  今宵は……彼の移り香に抱かれて眠る。  涙が枕を濡らしてしまうのも構わず、人知れず泣いてしまった。  泣く事で、今日の出来事をすべて洗い流したかったから。  最初に言われたキツイ言葉を忘れたい。    確かに僕は端から見たら、滝沢家とは何の関係もない『赤の他人』だ。  この国では、結婚なんて出来ない。  どんなに宗吾さんと躰を重ねても、何も生み出せない躰だ。  でも……それでも!  僕は宗吾さんと芽生くん、お母さんと、家族になりたい。  それが本心、それが本音だ。  明日にはさっぱりした顔で全部忘れて、お母さんの所に行く。  そのためにも涙を流した。  あ、こんなに泣いたらバレてしまう……    でも、ごめんなさい。  今は止められない。  芽生くんの温もりに縋る、ひとりの夜だった。  真夜中に電話が鳴った。  宗吾さんからだ。 ****  ニューヨーク支社。 「お疲れさん。滝沢さん、ランチにでも行かないか」 「いや、今日はそれどころじゃなくてな」 「ん? 日本で何かあったのか」  カメラマンの林さんが、心配そうに聞いてくれた。彼とは長年の仕事仲間だが、お互い分かりあえる部分が多く、何でも話せる仲だ。 「……実はお袋が倒れたって、兄から連絡あってな」 「何だって? 大丈夫なのか」 「ありがとう。とりあえず無事で落ち着いていると連絡があった」 「そうか……あ、瑞樹くんさ、大変だったんじゃないか。留守を任せてきたんだろ?」  痛い所を突かれた。  やっぱり林さんには何でもお見通しだな。 「そうなんだ。だから今から連絡してみる。朝はミーティングが始まって話せなかったから」 「それがいい。すぐに駆け付けられなくても、声を聴くだけでも違うからな」 「そうだよな」 「しっかりな。彼……頑張ったと思うぞ、アウェイで……」 「あぁ」  日本はもう真夜中だ。  だが、君を揺り起こす事になっても構わない。  きっと一日頑張った分、悲しい夜を、ひとりの夜を過ごしている。  一通の返信メールだけじゃ推し量れない。  声を聴かせてくれないと、安心できない。  君の声を、しっかりと聴かせてくれ。  君と会えないのなら  触れられないのなら  せめて、ありったけの言葉で包み込んであげたい。  瑞樹……ひとりで泣くな。  俺の言葉に抱かれろ。      

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