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箱庭の外 19

 箱庭の外で、人は生きている。  理想とかけ離れた現実と対面し、毎日をやり過ごす事も多い。  思うようにいかないこともある。  悶々とする事も多いだろう。  理不尽な目に遭う事ことも、時を戻したくなる程の悲しみに直面することも。  それでもその中に、楽しみや喜び、幸せは、確かに存在する。  その欠片を拾えるかどうかは、結局、本人次第なのだ。  私は職業病なのか職業柄なのか、今までずっと目の前の事実ばかり気にして、結局何も拾えていなかったようだ。  妻の美智は、いつも寄り添うように傍にいてくれる。  父は亡くなってしまったが母は健在で、五歳年下の弟もいる。  そして可愛い甥っ子に、弟の恋人とも出会えた。  それがどんなに素晴らしい事なのか、忘れていた。    更に、時に人は現実に疲れた心を慰め静めるために、箱庭の中に入りこみ羽を休ませる時間が必要だということも、忘れていた。  何も理解していなかった。  美智が造った箱庭。どんな物だったのか、見てみたい。  何度も誘われたのに、いつも彼女一人で行かせてしまい後悔している。  そして昨日私が言葉で追い詰めてしまった彼も、彼にとって安らげる……箱庭のような場所で心を整えてきたのだろうか。  彼は泣き腫らした目だったが、穏やかな澄んだ眼差しをしていた。  透明感があるな。とても清潔で清純で、今時珍しい思慮深さも兼ね備えている。  私は偉そうに……真実を見極める、人を見る目があると自負して……全く恥ずかしい。  もっと人の内面に、しっかりと目を向けて行きたい。それから一時の感情に左右されて、カッとなりやすい性格も直したい。 「憲吾さん。僕達はそろそろ帰りますね。あの、明日も来ていいですか」 「あぁ宗吾は明日帰国か。成田? 羽田?」 「羽田までの直行便で、夕方の便です」 「そうか、じゃあ病院に顔を出したら、羽田まで送ってやるよ」 「え?」 「私も久しぶりに弟の顔が見たくなってな」 「あ、はい! よろしくお願いします」  丁寧なお辞儀をした後、彼は芽生と手をつないで帰っていた。  君と、いい関係を築きたい……  先ほど医師から説明を受けたが、母の入院は検査をしながら10日前後になるそうだ。退院後は、今までの生活スタイルを少し改め……ゆったり過ごすようにと言われている。更に万が一に備え、急変に速やかに対処出来るよう、家族の連携もしっかりするように忠告された。  今すぐどうこうではないが母も、もう75歳だ。いつまでも元気だと気楽に考えていたが、加齢には敵わない。  宗吾と母の今後についても相談しよう。  何故なら私は転勤族なので、母の様子をいつも近くで見守ることが出来ないから。  裁判所は全国に存在するので裁判官の生活には転勤がつきもので、新人時代に勤務した地方裁判所を2年で離れたのを皮切りに、以後3~4年サイクルで転勤を繰り返している。大都市や地方など、各地を満遍なくまわっている最中だ。  今回はたまたま都内にいたから良かったが……  だからもう……弟といがみ合っている場合ではない。  同じ母の腹から生まれた、唯一無二の兄弟だ。  宗吾。  心を開いて、話し合おう。  今度こそ──     **** 「ふう……ようやく帰国できるのか」  飛行機の座席にもたれると、思わず独り言を呟き、深い溜息迄ついてしまった。今回の出張は、いつになく長く感じたな。 「滝沢さん、なんだか疲れているな。ちゃんと眠れたのか」 「え? うっ……それ言う?」  林さんはいつも鋭い所を突いてくる。  柄にもなく実は寝不足なのさ。いや、瑞樹不足だ。  しかし……まさか留守中に母が倒れるなんて、激しく動揺してしまった。  瑞樹が踏ん張っているのに、俺がこんなんじゃ情けないよな。   「ははん、やっぱり彼氏が恋しいんだろう」 「あぁそうだ。そういう林さんこそ、どうなんだ? 辰起くんは下っ端から売れっ子スタイリストになってきて、寂しくならないか」 「う、痛いことを」  林さんへの質問は、自分への質問でもあった。  瑞樹もだ。彼の手から生まれる花は、人の心を掴んで離さない。彼の経験……痛みを知る体験が、人の傷ついた心をも深く癒やすのだ。  評判は評判を呼び、きっと広まっていくだろう。『葉山瑞樹』という名が世の中に。今後ますます人気のフラワーアーティストとなっていくだろう。 「そりゃ寂しいよ。でも辰起は本当に人知れず苦労を重ねて生きてきた奴だから……やっぱり応援している」 「あぁそうだな」  瑞樹もそうだ。  幼い頃から苦労を重ね、辛い事件巻き込まれ、それでも立ち直って前を向いて進む男だ。彼が前に進むのを引き留めではならない。それは分かっているが、時々俺の腕の中に閉じ込めてしまいたいくなる。 「俺も瑞樹も男だから……難しい時もある」 「まぁな。それでもやっぱり愛してしまうんだ。誰にも何にも止められない想いだよな……『恋』って」 「あぁそうだ」  お互い同性の恋人がいる身だ。  林さんと話すことで、ザワザワとしていた心が落ち着いた。  瑞樹不足だから、こんな事まで不安になってしまうのだ。きっと……  瑞樹、瑞樹、瑞樹に会いたい。  昨日、君を言葉で抱いた。  すると涙に濡れた君は、最後に俺を抱きしめてくれた。 『宗吾さんも……こっちに来て下さい。不安でしょう。お母さんが倒れて……でも大丈夫。お母さんは無事です。どうか安心して下さい。大丈夫ですよ』  何度もそうやって励ましてくれた。  あの時、俺たちはお互いに支え合っていると実感したよ。  離れて気づいた。  君がどんなに俺の精神安定剤となってくれているか。  深まる想いだ……  瑞樹への気持が、ますます深まっていく。  飛行機は間もなく、羽田空港に着陸する。  君が待つ場所に、俺は戻る。    早く君に会いたい。  早く君を抱きしめたい。  お互い頑張ったのだから、深く……深く抱き合いたい。    愛する人がいると、心が強くもなるが、弱くもなるなと苦笑した。  そんな人恋しい自分が、とても人間らしいと思う。      

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