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恋満ちる 16

 いよいよ明日から1泊2日の社員旅行だ。行き先は神奈川県の強羅温泉で、土曜日の朝、出発し、ロマンスカーと登山鉄道を乗り継いで行く予定だ。  僕の部署だけなので20名程度だが、少し緊張するな。入社した年に一度行ったきりで、あとは日帰りだったので、泊まりがけで社内の人と行動するのは久しぶりだ。いまどき社内旅行をする会社も珍しいが、老舗企業のせいか、古き伝統を重んじているようだ。 「ただいま」  あれ? いつもなら『おにいちゃん、おかえりなさい』とすっ飛んで来て、僕を出迎えてくれる芽生くんの姿が見えない。  不思議に思いながらリビングに向かうと、扉の向こうから厳しい声が聞こえてきた。 「こら! 芽生、なんてこと、してくれたんだ! 」 「ううう、ごめんなさい」 「あーぁ、俺の一張羅に」  珍しく宗吾さんが芽生くんを厳しく叱っている。一体、何事だろう? 「あのっ、どうしたんですか」 「あ、瑞樹。 帰ったのか」 「うう、おにいちゃーん」  芽生くんは、しょぼんとベソをかいている。 「どうしたの? あれ? 芽生くん、手が真っ黒だよ」 「瑞樹~参ったよ」  宗吾さんも、困り顔で泣きついてくる。僕に見せてくれたのは白いワイシャツだった。 「あっ……これはまた、派手に書かれましたね」 「あぁ、油断していた」  白いワイシャツに黒い油性マジックでぐちゃぐちゃに落書きがしてあった。そうか、だから芽生くんの手、真っ黒だったのか。 「芽生くん、どうしてこんなこと……しちゃったの? 」 「うう……だって……あのね……ぼくのうわばきのおなまえがね、うすくなってきちゃって、マジックみつけたからかいたの。そしたら、たのしくなって……いろんなところにかきたくなって」  気持ちは分かるよ。普段持たせないペンを持つと、子供がどういう行動に出るか、僕は知っているから。  僕の弟の夏樹も、芽生くんと同じ年頃の頃、マジックで背丈を書いていたら楽しくなって、こっそり床に手型や足型を縁取ってしまったんだよなぁ。  いやいや、でも宗吾さんの一張羅は駄目だ。  ここはやっぱり注意しないとな。 「気持ちはわかるよ。マジックって……いろんな場所に書ける魔法のペンみたいだもんね」 「うん……」 「でも、パパのお洋服が台無しになってしまったのは……」 「わるいこと? だよね」  上目遣いに……僕を見る芽生くん。 「もうしない? 」 「しない! ごめんなさい 」  床にぺたっと座って、素直に頭をさげる芽生くんの様子に、宗吾さんと微笑みあってしまった。この位でいいですか。と目で訴えると、即OKが出た。 「よし、じゃあ約束だよ。まずはその手を洗おうか」 「うん」 「瑞樹、どうやって油性マジックって落とすんだ? 」 「大丈夫。ちゃんと落ちますよ。皮膚についてしまった油性マジックは、ハンドクリームか、オリーブオイル、サラダ油などを使って落とします」 「そうか、じゃあオリーブオイルでいいか」 「はい! 」  落とし方は簡単で、油性マジックで汚れた部分に塗って、なじませてからティッシュでふき取るだけだ。オリーブオイルなら肌に優しい成分なので安心だ。 「芽生くん、手を出してごらん」 「おにいちゃん……ごめんなさい」 「僕も上履きのお名前が薄くなっているのに気が付かなくて、ごめんね」 「ううん、おにいちゃんもパパもいそがしいもん」 「あれ? 手、ひっかいたの? 」 「あ……ちょっと」 「? 」 「何かあった? 」  少しひっかかったので、芽生くんを膝に乗せて、言葉を促してあげた。  オリーブオイルをつけた小さな手も、マッサージするように労ってあげた。 「幼稚園でのこと、おにいちゃんに、話してごらん」 「……うんとね、あのね、ボクのうわばきのおなまえがうすくなっていたから、まちがえてはいちゃったおともだちがいて、かえしてっていったんだけど……かえしてもらえなくて、ケンカしちゃったんだ」 「え、そうだったの。ますます……ごめん」  喧嘩の原因にもなってしまったなんて、僕の方がもう反省だ。 「おにいちゃん、でもね……ボクからは手は出さなかったよ。でもね……『なまえくらいじぶんでかけよー』っていわれて、くやしくて……だから」 「そうか。偉かったね。そして、本当にごめんね、事情もよく聞かずに、頭ごなしに叱って」 「だいじょうぶだよ。だって、おにいちゃん、すぐにわかってくれたもん。でもボクもわるいことしたよね。パパのおようふく、ごめんなさい」 「なにか書きたかったの? 」 「うん! あのね、ぼくね、おにいちゃんのおなまえもかけるようになったんだよ。だかられんしゅうしたくて、つい、パパのおようふくで」  芽生くんの言葉に、胸の奥がじんとする。 「芽生くん、じゃあ、あとで僕の洋服に名前を書いてくれる? 」 「いいの? 」 「そうだね。うん、じゃあ下着になら……いいよ」 「やったぁー! ボクがんばって、キレイにかくよー」  よかった、機嫌が直って。 「よし、マジックは綺麗に落ちたよ」 「よかったぁ」  リビングに戻ると、宗吾さんが電話に出ていた。 「はい、そうだったのですか。いえ、こちらこそすみません。はい……先生、わざわざありがとうございます。芽生にも伝えます」  幼稚園から? 「宗吾さん? 」 「あー芽生、幼稚園で、お友達と喧嘩したそうだな」 「う……ん、だってぼくのうわばきだったから」 「怒っていないよ。先生から事情は聞いた。相手の子が、引っ掻いてごめんなさいと謝っていたそうだよ。パパもごめんな。この前洗った時、名前が薄くなっているのに気付いていたのにさ」 「ううん……」    僕も宗吾さんも反省した。お母さんだったら、気付くところかもしれないのに、つい雑に扱ってしまった。 「宗吾さん、僕も芽生くんから今、聞きました」 「俺達……やっちまったな」 「ですね」  宗吾さんと僕は共に反省してしまった。一方、芽生くんはちゃんと理解してもらえたのに満足して、もう気持ちを切り替えていた。 「おにいちゃん、おなまえ、どこにかいていいの? 」 「あ、じゃあ旅行に持って行く……『パンツ』にしようか」 「なぬ? 『瑞樹のパンツ』? それ、なんの話だー?」  宗吾さんが、ガバっと食いついてきた。 もう……『パンツ』という言葉に食いつき過ぎですよ!  

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