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春風に背中を押されて 7

 あの日、僕が留まった場所は、ここだ。  シロツメクサの指輪を見た途端、ずっと言えなかった寂しさや悔しさが溢れて、涙が止まらなくなった。  自分でもどうしたらいいのか分からない程、この場所で泣いた。泣きじゃくってしまった。    僕も、幸せになりたい!  それは願ってはいけないとで、ずっと自分を戒めていたのに、どうしてあの時だけは、泣けたのだろう。  あんなに声を出して嗚咽したのは、両親と弟を目の前で失った時以来だった。  あの日から、僕の運命は変わっていった。  シロツメクサの指輪が開いてくれたのは、僕の心。  あの日の僕が幻で見えるようだ。  宗吾さんと今より一回り小さな芽生くんの二人ががりで励ましてもらい、背中を優しく擦ってもらった。 『泣いていいよ』と言ってもらえたようで、嬉しかった。 「懐かしい光景だね」  目を細めて、過去を見つめた。それはどこまでも懐かしさが募る優しい思い出だった。  一馬と別れた日を、こんなにも穏やかな心地で、ひとりで振り返ることが出来るなんて、僕は今、とても、とても幸せなのだ。  見下ろすと、足元にはクローバーが群生していた。 踏まれても踏まれても生い茂り、そこからラッキーアイテムの四つ葉にもなるクローバー。あの日、宗吾さんからもらった四つ葉は、家に帰ると萎れてしまっていたが……僕の心の中でずっと生きていた。だから乗り越えられたのだ。  潤との蟠りも、軽井沢の事件も、玲子さんとのことも、乗り越えてみようと思えた。前向きになれた。  その先に僕が欲しかった、やさしくてあたたかい家族の幸せが待っている予感がしたから。   ****  帰り道に花屋に寄った。    芽生くんの卒園を祝って、明るい春色の花束を作りたくなった。  新しい人生のスタートの節目となる幼稚園の卒園式は、芽生くんの成長が区切りを迎え、新たな人生の旅立ちに向けて節目となる大切な行事だから、僕らしく花で祝福したい。  今日は僕にとっても、特別な日だ。  心から「おめでとう」の気持ちを込めた花を贈ろう。芽生くんへのお祝いはもちろん、子育てを頑張ってきた宗吾さんへの労いの気持ちも届けたい。  花は、いつも僕の心を映してくれる。  この時期に一斉に咲き出す春の花は、瑞々しい希望に満ちていている。帰り道に見かけた花屋の店頭にも、ピンク色やオレンジ色、赤色など、明るくて華やかな春色の雰囲気の花が満ち溢れていた。 「いらっしゃいませ。何にされますか」  まずは芽生くんに。 「この黄色とオレンジのガーベラとかすみ草を」  ガーベラの花言葉はどれも前向きで明るい。「希望」「前進」という花言葉は、小学校へ進学する芽生くんへの応援の気持ちだよ。 白く小さな花が可憐なかすみ草は、メインの花を美しく引き立ててくれる。花言葉も素敵で、「感謝」「幸福」……それは今の僕の気持ち。 「あの、チューリップも」  宗吾さんには「思いやり」「誠実な愛」という花言葉を持つチューリップにしよう。ふんわりとした形の優しい花は、春の訪れを喜ぶように風に揺れている。  見る人の心を弾ませる存在。春の息吹のようなあたたかく、おおらかな宗吾さんのイメージとぴったりだ。 「何色にしますか」 「……そうですね、赤にして下さい」  特に赤いチューリップの花言葉は「愛の告白」。僕からの愛を春の花に込める。 「全部、花束にしますか」 「あ……いえ、自分で作りたいので、そのまま包んで下さい」  花の包みを抱えて、帰路に就く。  帰るのは、一馬がいなくなったアンバランスな部屋ではない。  僕が家族と暮らす家だ。  そこに向かって真っ直ぐに帰る。  寄り道は、もうしない。  **** 「ただいま」  玄関の扉を開くと、宗吾さんと芽生くんはいないが、彼らの気配と匂いを感じる部屋にホッとした。  もう一人ではないんだ、僕は。  ここで待っていれば、家族が戻って来てくれる。  それが嬉しくて、少しだけ……泣いた。  それから、僕は函館に電話をした。 「もしもし葉山生花店です」 「兄さん」 「おわっ! 瑞樹じゃないかー! こんな昼間にどうした?」 「うん……声が聞きたくなって」 「うう、嬉しいことを」  電話口の広樹兄さんは、とても嬉しそうだった。そうだ、兄さんはいつだって僕を愛してくれている。最初に僕を見つけてくれたのも、広樹兄さんだった。 「兄さん、あのね……今日は芽生くんの卒園式だったんだ」 「そうか。今日だったのか。おめでとう!」 「ありがとう。立派な卒園式だったよ」 「瑞樹も行ったのか」 「うん、参列させてもらった。清々しかった」 「よかったなぁ。瑞樹の高校の卒業式を思い出すよ。これで、函館からいなくなるのかと思うと、あの時は涙が溢れて大変だった」  そうだった。そうだったよね。兄さん。 「兄さんは、誰よりも大声で泣いてくれた」 「……寂しかったんだぜ」 「うん、僕も本当は……寂しかったよ」 「え……そうだったのか。それを聞けて嬉しいぞ」 「それから……嬉しかった。兄さんと母さんが揃って来てくれて、嬉しかった!」  あぁ……やっと言えた。   「瑞樹、それ、母さんにも聞かせてやれよ」 「あ……うん」  電話をしたのは感謝の気持ちを伝えたかったから。あの頃の僕が素直に言えなかった言葉を今から伝える。今更かもしれないが、伝えないよりはずっといい。 「瑞樹、元気にやっている?」 「はい。お母さんも元気ですか」 「おかげさまでね」 「芽生くん、今日無事に卒園しました」 「まぁ、あの子も4月には小学生なのね」 「はい。あの……お母さん……僕、お母さんが卒業式に来てくれたの、本当はとても嬉しかったです。あの頃は素直に言えなくて、ごめんなさい」  どうか、伝わって欲しい。 「瑞樹、嬉しいわ。あの頃のあなたは……静かで押し黙っていることが多く、私も、もっと踏み込んであげるべきだったのに、ごめんね。そうか……嬉しかったのね。良かったわ」 「とても嬉しかったんです。本当は……とても!」 「うんうん。瑞樹が喜んでくれていたのは、ちゃんと分かっていたわ」 「え……っ」  そうだったのか……。 「あなたを引き取って間もない頃、スーパーではぐれてしまったの覚えているかしら? 私を見つけてホッとした、あなたの表情が忘れられないわ。あぁこの子をひとりにしちゃいけないって……その時、誓ったのよ。卒業式でも似た表情を浮かべてくれていたのよ」 「……そうだったの?」 「そうよ」 「今のあなたは、声も明るくて、とても幸せなのね。見なくても分かるわ」 「はい……お母さん。また函館にも行くから……待っていて下さい」 「えぇ、えぇ! ここはあなたの家よ。いつでも家族で遊びにいらっしゃい」 「はい!」  函館の家族は……皆、懐の暖かい、優しい人たちだ。  両親を亡くしてから8年間、一緒に暮らした日々を、もっともっと思い出したいよ。  もう怖くないから、ゆっくり振り返っていこう。  僕……あれからも、沢山の幸せを、ちゃんともらっていた。

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