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幸せな復讐 4

「あの……僕はこっちでいいですか」 「ん? 芽生と座らなくていいのか」 「すぐ隣にいます」 「そうか」  湯布院行きのバスでは、宗吾さんに芽生くんの横に座ってもらい、僕は通路を挟んで隣に座った。宗吾さんが心配そうにチラチラと僕を見るので、微笑みで返した。 「大丈夫ですよ。足湯のお陰で血の巡りが良くなったみたいで、クールダウンしますね」  少しだけ窓を開けて、春風を浴びた。  すぅ……っと、深呼吸してみた。  空気が美味しい。    スキー旅行の後は北の澄んだ空気が恋しかったが、南の空気もとても美味しい。都心の空気とは別物の、清々しい空気だ。  ここは一馬が生まれ育った場所で、これが一馬が吸っている空気なのだなと思うと感慨深かった。  思い返せば、一馬は居心地のいい男だった。あれこれ詮索することもなく、ただ僕を暖めてくれた。温もりをくれた人だった。  幸せに臆病で、幸せから遠ざかってばかりの僕を責めることもなく、ただただ、変わらない毎日をくれた人だった。  だが、一馬だって人間だ。時に変化という刺激が欲しくなるのも当然だ。なのに僕は……頑なに同じ場で同じ事しか、アイツに返さなかった。  今なら分かるよ。人は日々変化していく生き物だ。だからその変化に寄り添って、歩み寄って生きていかないと、いずれ歪みが生まれてしまう。小さなひび割れも、やがて亀裂になってしまう。  今の僕は芽生くんを介して、宗吾さんとの恋を進めている。  芽生くんの成長に寄り添っていると、自然に……僕も変化出来た。変わっていくのが怖くなくなった。変わることの柔軟さ、大切さにも気付けた。躍動感のある宗吾さんについて行く、楽しみも知った。 「瑞樹、もうすぐ着くが、この辺りは、長閑《のどか》だな」 「はい、北の大地とはまた違った雄大さがありますね」 「そうだな。でも吹く風は違うが、果てしない大空、広い大地は、北も南も同じだ」 「そうですね、当時の僕には南の明るさが眩し過ぎたのですが、いざ来てみると、とても良い場所に見えます。それは……今、宗吾さんと芽生くんと一緒だからです」  そう伝えると……宗吾さんがホッと息をついた。 「よし! 瑞樹はもう……頭の中を整理出来たようだな」 「はい。もう大丈夫です」 「良かったよ」    **** 「春斗とその辺を散歩して来るよ」 「了解よ。私もお昼食べちゃうわね」 「いつも忙しくさせて悪いな」 「大丈夫よ。若女将ですもの! それより、春斗をお散歩させてくれてありがとう」  優しい妻のお陰で、忙しい毎日でも潤いを持って過ごしている。 「こちらこそ、ありがとうな。助かっているよ」    チェックアウトからチェックインまでの僅かな空き時間。俺は昼食後の腹ごなしを兼ねて、よちよち歩きの息子と、旅館の近くの原っぱにやったきた。  幼い春斗には、日向ぼっこの時間も大切だ。大地に根付くように、スクスクと逞しく成長して欲しい。 「パーパー! んっ、んっ」    抱っこしている腕の中で、春斗が降りたそうにもがくので、足を地面につけてやると、嬉しそうな笑顔で足をバタバタさせた。 「春斗はご機嫌だな」  こんなに小さいのに自分の足で地面を踏めるのは、そんなに嬉しいのか。だが歩けるといっても、まだかなり危なっかしいぞ。  案の定、3歩で……すてんと転んでしまった。 「わ! 大丈夫か」  柔らかい原っぱなので痛くなかったようで、ケラケラと笑ったので、ホッとした。そのまま地べたにしゃがんで遊びだしたので、俺もすぐ横に腰を下ろした。 「今日はいい天気だな。空気が澄んでいるし空も真っ青だ」   大空を見上げると、飛行機雲を見つけた。まるで一本道のようだ。 「どこまで続いていそうだな。もしかしたら東京まで続いているのかもな」    東京と口に出した途端……俺が東京で過ごした数年間、共に過ごした男の顔が雲のように浮かんだ。  彼とは大学の学生寮で出会い、そこから就職して三年目まで同棲した。  瑞樹……。  もう口に出して名を呼ぶことは二度と出来ないが、元気でやっているか。    あんな風に別れ、あの部屋に君をひとりで置いて行って……ごめんな。    あれからどうしている? ちゃんと水を飲んで生きているか。  俺の最後の手紙は、読んでくれたか。  もう会う資格もない俺だが、いつも花のような香りを漂わせていた君を、心から大切に想っていた。代々続いた旅館を継承してくれという親の望む道を捨てられず、君を中途半端に捨ててしまったけれども。  そんな瑞樹が、何故か間もなくここにやってくる。    チェックインの時間まで、あと1時間だ。緊張が高まって心臓が痛いほどだ。  すると、野草で遊んでいた春斗が何か掴んで見せてくれた。   「パパぁ」 「どうした?」  俺に手渡してくれたのは、クローバーだった。しかも四つ葉で、幸せの兆しだった。   「あぁ、これは葉っぱが四つだから、四つ葉というんだよ」 「……す、き!」  小さな息子の、たどたどしいお喋りが愛おしい。  春斗が俺の膝に小さな頭をちょこんと乗せて、笑ってくれた。  天使のような笑み。子供は幸せの塊だ。    もう俺は、この生き方を後悔していない。    瑞樹も見つけたのか。    誰か、幸せになれる相手を。  今回の同行者は、もしかして……その相手なのか。  

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