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幸せな復讐 5
由布院駅前でバス停を降りると商店街が続き、観光客で賑わっていた。
北東部にそびえる由布岳は、豊後富士と親しまれているだけあって、美しい山並みだ。
春のうららかな日差しの中、僕たちの心は新しい旅への期待で弾んでいた。
「瑞樹、どうする? 旅館の送迎バスに乗るか。それとも歩いて行くか」
「あ……あの歩いてでも、いいですか」
最終的な心の準備がしたかった。
「もちろんいいよ。まだチェックインまでかなり時間もあるし、ゆっくり行こう」
「あ、あのね……」
「どうしたの? 芽生くん」
「ボク……おなかすいた」
「あ、そうだ! ごめん。お昼を忘れていたよ」
僕も宗吾さんも緊張と興奮で抜け落ちてしまったが、まだ昼食を食べていなかった。
「宗吾さん、どこに行きましょうか」
「せっかくだから名物料理にしようぜ」
「はい!」
宗吾さんが案内してくれたのは、駅前にある牛肉のひつまぶしのお店だった。
「大分といえば霜降りで柔らかい肉質の豊後牛が有名だそうだ。で、この店が美味しいって調査済みさ」
「いいですね。流石です! 広告代理店の人脈を駆使していますよね」
「ははっ、君に旅先ならではの美味しいものを食べてもらいたくて、頑張ったよ」
宗吾さんの言葉はいつも僕を持ち上げてくれる。嬉しい気持ちにさせてくれる。
暫く待つと熱々の銀色のお釜が出てきた。蓋を開けて覗き込むと、お釜の中にぎゅうぎゅうと牛肉スライスが敷き詰められていた。
「わぁぁ~おにくさんだらけだね」
「ふふ、芽生くんも一杯食べてね」
「お兄ちゃんもね」
僕と芽生くんは顔を見合わせて、にっこり微笑みあった。芽生くんとは好みも合うし、話も合う。君が大きくなったら、僕の友達みたいになっているのかな。10年も経てば、また関係も変わっているだろう。そんな想像をするのも楽しいね。
「お兄ちゃん、とってもおいしそうなにおいだよ。クンクンクン……」
ジューシーな肉汁と出汁の利いたお米の香りに、僕もお腹がグルルと鳴ってしまった。
「わ、恥ずかしいよ」
「だいじょうぶだよ。ボクもいっしょ」
芽生くんがお腹をさするとグルルと鳴ったので、また微笑みあった。
すると……僕たちの会話を聞いていた宗吾さんが、箸を置いて唸った。
「うーむむむ」
「どうしたんですか」
「俺の将来の立ち位置が微妙で、10年後に想いを馳せていた」
「くすっ、何を言っているんですか」
僕もちょうど10年後に想いを馳せていましたが……僕は永遠に宗吾さんのモノですよ。こんな風に誰かの所有物になったみたいな言い方は、以前の僕だったら絶対にしなかったのに不思議だ。今はそうなりたいと願ってしまう。そして宗吾さんは僕のモノで、誰にも渡せないとも。
これを『恋人への独占欲』と……人は言うのかな。
1杯目はそのまま頬張って肉汁を楽しみ、次は山椒と柚子胡椒をかけて刺激を加え、最後はだし汁をお釜の中に入れて、お茶漬け風に楽しんだ。芽生くんも夢中でお焦げを食べていた。
「お兄ちゃん、とってもとっても、しあわせだね」
「うん、とても幸せだね」
美味しいものを、旅先で、家族で食べる。
これは物質的な幸せな存在だ。
いろいろな形の幸せがこの世の中には、存在するね。
食後はのんびりと散歩しながら、宿に向かった
「芽生くん、30分も歩けるかな?」
「うん! 頑張る」
「瑞樹……疲れたら、その辺の原っぱで休憩すればいいさ」
「はい!」
そうですね、宗吾さん。
疲れたら休めばいいのですよね。僕はそれを知らずに成長してしまいました。
「じゃあ、こんどはレッツゴーだね」
「くくくっ、エイエイオーとかレッツゴーとか、芽生の言葉は、母さんの受け売りだな~」
「くすっ、でもお母さんがいるみたいで、とても元気が出ますよ」
さぁ、いよいよだ。
一馬の宿に向かって、僕らは歩き出す。
見上げれば、どこまでも澄んだ青空で、お腹も心も満たされた僕の心は、凪いでいた。
****
「ただいま」
「カズくん、ハルト~お帰り。わ、手が泥んこね」
「ごめん。野原で遊んだ」
「いいのよ。子供は自然とたっぷり触れあわないと」
妻は機嫌良く息子を抱っこして、洗面所に行った。
「あと1時間だな。俺は部屋の最終確認と、お茶菓子を置いてくるよ」
「ありがとう! 本館は私がしたから、離れをよろしくね」
「あぁ」
鍵を持って外に出た。
見上げた青空は、どこまでも澄んでいた。
先ほどまで瑞樹との再会に心臓が痛いくらい緊張していたのに、息子との触れ合いのおかげで……俺の心はすっかり凪いでいた。
『菖蒲』
この部屋に、瑞樹が宿泊する。そう思うと不思議な心地だった。
8畳一間に、源泉掛け流しのひのき風呂がついた自慢の宿だ。窓からは雄大な由布岳、源泉の湧き上がる白い煙が所々にあがる、湯布院らしい景色だ。
ちゃぶ台の上に、大分名物の『かるかん饅頭』を並べた。あと子供用の箱に入ったお菓子も。
これ……実家から送られてくるのを、瑞樹もよく食べていた。好きだったよな。
宿のメッセージカードには、主の手書きメッセージを入れるのが日々の習わしだ。
いざ、瑞樹宛にメッセージを書くのは、緊張するな。あの日の朝、泣きそうになりながら書いた手紙の存在を思い出す。
『ごゆっくりお過ごし下さい』
ありきたりの言葉に込めた想いは、『幸せになって下さい』だった。
何か心を――
作務衣の袖の中に、先ほど息子がくれた四つ葉があったのを思いだし、手書きカードの上に置いて、そっと部屋を出た。
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