659 / 1741

幸せな復讐 7

「お兄ちゃん、おやどのなまえはなんていうの?」 「ん……若木(わかぎ)旅館だよ」 「わかぎ? よーし、カンバンをさがすよ。ボクがつれていってあげる」 「くすっ、うん、芽生くん、道案内を頼むよ」  芽生くんが自然に僕の手を握り、じっと右手を見つめ、ニコッと笑った。 「お兄ちゃんの手って、やさしいからだいすき。ユビワさんもよろこんでいるよ」 「そうかな? ありがとう」  芽生くんの言葉一つ一つに癒やされながら、歩む道となる。  若木一馬(わかぎかずま)  それが一馬のフルネームだ。名字で呼んだことは殆どなかったので、意識していなかったが。 「ねぇねぇ、お兄ちゃん、ワカギってどんな漢字なの?」 「ん……年が若いの『若』に樹木の『木』で、意味は生えてからまだ年数の経っていない木のことだよ」 「そうなんだね」 「瑞樹、そういえば『若木』は中国では『じゃくぼく』と呼んで、西の果てにある伝説の巨木のことでもあるぞ。世界を構成する重要な役割をもつ神樹なんだってさ」 「流石、宗吾さんは世界に詳しいですね。僕の知らない世界を知っていて素敵です。そうか……縁起の良い名前なんですね……よかった」  そんな話をしていると、いつのまにか旅館に辿り着いたようだ。 「あ、『若木』って漢字みーつけた! お兄ちゃん、こっちだよ!」  いよいよだ。そう思うとやはり緊張して足がぴたりと止まってしまった。 「お兄ちゃん? どうしたの?」 「あ……いや」 「だいじょうぶ。こわくないよ。ボクもパパもいるから大丈夫」  躊躇う僕を芽生くんが励ましてくれ、優しく手をグイグイと引いてくれる。 「瑞樹、芽生の言うとおりだ。怖くない。大丈夫だ。さぁ行くぞ」  宗吾さんも、僕の背中を優しく押してくれる。   「まずは案内図を見よう」 「はい」    館内案内図を見ると、広大な敷地に、フロント棟や離れの客室、露天風呂、レストランなどが点在しており、客室数から想像していたよりも、ずっとスケールの大きな温泉宿だった。  ここが一馬が生まれ育った場所なのか。そう思うと胸の奥がじんとした。  創業100年を超える立派な旅館の跡継ぎ、ひとり息子。僕が想像していた以上に重圧があったに違いない。 「あ、もう3時を過ぎましたね。チェックインしましょう」 「おぉ」 「お兄ちゃん、行こう!」  ****  午後3時、チェックイン受付開始時刻になった。  スタッフの少ない旅館なので、俺がチェックインの対応をしている。 「お待たせ致しました。チェックインのお時間となりました。列にお並び下さい」  声を張り上げロビーを見渡すと、そこにはまだ瑞樹の姿はなかった。  あれから2年……俺の記憶の彼は、最後の日から止まっている。  あれから東京へは二度行ったが、会えなかったから。  まだ裸で布団で眠っていた瑞樹は、疲労困憊のようだった。それもそうだ。一晩中抱き合っていたのだから。あれが最後の逢瀬だった。  瑞樹の柔らかな頬には涙の乾いた跡があって、ギュッと胸が潰される想いだった。  別れを切り出した時、瑞樹は何も執着しなかった。まるでそうなる予感でもあったかのように、水を飲むようにさらりと受け入れた。 『その代わりに、最後の朝まで一緒に居て……』  ただそれだけの希望が、切なかった。    瑞樹がここに来たら、すぐに分かるだろう。7年間共に過ごした間柄……就職してからの3年は毎日のように隣で眠ったから。  瑞樹は、寂しがりやで、幸せになるのを怖がる男だった。だから俺は7年間、瑞樹を怖がらせないように、いつも同じ事だけを繰り返してやった。  瑞樹が抱えてきたものを聞き出すこともしなかった。ただ何重にも包んで守ってやる愛だった。一度……壊して、もっと踏み込んでみたら違ったのかな。  結局一番、瑞樹が嫌がることを最後にしてしまったクセに何を今更――  瑞樹を置き去りにした。独りぼっちにさせてしまった。  俺が決めた道をあいつは受け入れてくれたが、あの日の朝、あれからどうやって起きて、何をして過ごしたのか。この2年、どうやって生きてきたのか。本当は知りたいことばかりだ。 「あのぉ~」 「あ、すみません」  しっかりしろ、今は仕事中だ。  列には既に5組ほどお客様が並んでいたので、そこからは集中して接客した。 「こちらが鍵です。ごゆっくりお過ごしくださいませ」  3番目のお客様の対応を終え、ふと顔を上げると、突然目が合った。  ……瑞樹だ。  瑞樹が優しい眼差しで、ロビーの端にスッと立っていた。  2年前と変わらない、控えめな眼差し、可憐な顔に、無性に泣きたくなった。  本当に来てくれたのだ。  瑞樹を見ると、記憶が蘇る。  あの花のような瑞樹特有の香りが漂ってきた。  

ともだちにシェアしよう!