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幸せな復讐 8

「よし、入ろう」 「……はい」  扉を開けて入ると、既にチェックインの人が列を成していて、フロントに立っているであろう一馬の姿は、今は人陰に隠れ見えなかった。  僕は一度深呼吸し……辺りを見渡した。  フロントは、少し古めかしい雰囲気だった。 昭和レトロというのだろうか、振り子時計が長い時を刻み、革張りの茶色いソファは艶が出て、一目で年代物だと分かる。  一つ一つの家具は重厚だが、開放的な雰囲気なのは、要所要所に置かれた自然のインテリアのお陰だ。  白い玉砂利には、竹林。その前には見事な桜が生けられていた。フロントのテーブルにも低木の桜が植木が置かれ、淡い桜色が連なり優しい雰囲気を漂わせている。屋内なのに鹿威しに太鼓橋・苔玉など、小さな自然を楽しむ庭園のような造りも、心が落ち着く。  優しい新緑のお香も焚かれ、旅人をもてなす気持ちが伝わってきた。  じわり……と胸が熱くなる。  一馬は東京で商社に勤めており、旅館経営に縁もなかったのに、頑張ったな。    それに、この空間には見覚えがあった。 お互い北海道と九州という大自然育ち。  都内のコンクリート四角い部屋。学生寮やマンションで息が詰まりそうになっていた時、『部屋の中に庭を造ろう』と、観葉植物を置いたり、花を飾ったり……二人で工夫したよな。 「あなた、この旅館はフロントはいつ来てもいいわ。屋内なのに、まるで心を込めて造られた庭園にいるみたい」 「そうだな。若いご夫婦の経営と聞いたが、落ち着いた雰囲気でいいね」    隣に立っていた、老夫婦の賞賛の声が届く。  僕と一馬が過ごした7年間、何も残らない年月だったと勝手に思っていたが、違うのだな。  お互いあの7年を経て……今がある。。  そのことに気付くと、早く一馬の顔が見たくなった。  顔を上げよう!  僕はこの2年間、頑張ったよ。  宗吾さんと芽生くんと出会い、彼らに引き上げられるように自分の殻を破って、前に進む努力をしたよ。  今の僕を見て欲しい。  やがて1組、2組と客が捌け、一馬の姿が見えてきた。  相変わらず黒髪の短髪に、凜々しい眉。  いかにも九州男児らしい温かな面持ちの一馬が姿がようやく見えた。  あぁ……良かった、変わっていない。  とても元気そうだ。  僕は目が離せなかった。  すると一馬も顔を上げたので、視線が交わった。  2年ぶりに――  ****  前の彼氏と視線を絡めた瑞樹。  ついに……この時が来たのだな。  瑞樹がどんなに前の彼氏と仲良く暮らしていたか……それは嫌というほど理解していた。  何しろ、バス停で1年間、毎日のように見かけていたからな。  朝日に照らされた二人は、いつも初々しく朗らかだった。  春には、道の途中で立ち止まって、瑞樹の髪についた桜のはなびらを取る長身の彼。  梅雨時には、お互いの傘をよけ合いながら歩いていた。  夏には、途中でガードレールにもたれて水を回し飲みしていた。  秋には、綺麗な落ち葉に目を奪われてしゃがみ込んだ瑞樹を、温かい目で見下ろしていた。  冬には、外れそうな瑞樹のマフラーを直してあげていた。  前の彼氏が……どんなに瑞樹を大切に想っていたのか、俺は知っている。  バス停で……俺も生まれ変わったら、あんな恋をしてみたいと羨む程に、優しい彼氏だったことも知っている。  だから、二人が別れたのを知った時、本当に驚いてしまった。  二人の出会いと別れが無ければ、今の瑞樹はいない。  そう思うのに、男心が複雑だ。  今回は出しゃばるところではない。男らしくグッと堪えろ、宗吾。  自分に必死に言い聞かせるしかなかった。 「宗吾さん、そろそろ行きましょう」  瑞樹に声をかけられても、すぐには返事が出来なかった。まずいな。身体が固まってしまったようだ。 「宗吾さん?」 「あぁ、悪い。行かないとな」  顔も強張って、ぎこちない返事しか出来なかった。   すると瑞樹が花が咲くように、ニコッと俺を見つめて微笑んでくれた。 「あの、僕と一緒に並んで下さいね。あいつに……見せたいんです。僕の宗吾さんと芽生くんの姿を一番に」 「……ありがとう」  瑞樹は、もう大丈夫だ。    前の彼氏を前にしても、揺らいでいない。  そう思うと、俺もしっかりしたい。  今から、俺たちは『幸せな復讐』をする。  

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