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幸せな復讐 23
「うぇっ、うえっ……」
眠っていると、春斗の泣き声が聞こえて来た。
「春斗……? 泣いてるのか」
「大丈夫よ」
隣で眠っていた妻はもうとっくに起きており、春斗におっぱいを与えていた。しばらくするとスッと泣き止み、安心した顔を妻の胸元で浮かべ出したので安堵した。
「おはよう。春斗、腹が空いていたのか」
「うーん、それもあるけど、甘えているのかも。おっぱい卒業はもう少しかかりそう」
「あぁ、ちゃんとご飯も食べているから問題ないんだろう? 春斗はまだ2歳にもなっていないんだ。もう少し自然に任せてもいいよ」
「ありがとう。カズくんは本当に子育てに理解があるよね」
「こちらこそ。先に起きてくれて、ありがとう」
春斗を見ていると、俺も大切にされている気分になる。
本当に妻には感謝している。バタバタと東京でお見合い結婚し、新婚旅行に行く暇もなく大分に戻り、宿を継いで、若女将になって……それからすぐに妊娠し、身重の最中に父が亡くなって、今に至る。
宿を継いで2年目。ようやく夫婦の愛を交わす時間も、朝のこんな語らいの時間も設けられるようになってきた。
「そして、昨日は風呂場で……ありがとうな」
「やだ、お礼なんて。私もうれしかった。っと、カズくん、もうこんな時間よ」
「まずいな。ちょっと行ってくるよ」
「うん。まだ朝早いけど6時から露天風呂を使う人もいるから」
「あぁ!」
丘の上に設置した露天風呂は最高の景観で、『樹木の湯』と呼ばれ宿の名物だ。
ただ源泉の温度は高いので加水して調整し、湯かき棒で丁寧にかき混ぜて、温度調節するのが俺の仕事だ。
俺は手早く顔を洗い、作務衣に着替えて丘を駆け上った。
脱衣場の籠に旅館の浴衣が入っているのを横目で確認して、慌てて飛び込んだ。
すると前方の白い蒸気の中に、肌色の人影があり、 よくよく見ると瑞樹の相手とその息子さんだった。
瑞樹も傍にいるのかと、目を泳がせてしまった。
湯をかき混ぜていくと、動揺した心が凪いでいった。
熱くて入れない時も、湯を馴染ますといい。心もそうだ。少し落ち着かせると、すべきことが見えてくる。
俺なんかが言う資格もないのは分かっていたが、それでもどうしても伝えたい言葉があった。ずっと心の奥底に籠もっていた。
「あ、はい。あの……本当にありがとうございます。もう……大丈夫でしょうか」
伝われ!
願いを込めて真摯に頭を下げた。
すると、彼がしっかりした口調で、想いに答えてくれた。
「あぁ、もう……(瑞樹は)大丈夫だ」
「良かったです。では後は……どうか……(アイツのこと)よろしくお願いします」
言えた! ちゃんと言えた。
俺の7年間を繋げたのだ。
「で、では失礼します」
もう一度お辞儀をして、露天風呂を出た。
鼓動が早い――
俯いたまま、黙々と歩き続けた。
顔を上げないと――
もう思い残すことはないはずだ。
丘を降りる時しっかり立ち止まり、正面の由布岳を見つめて深呼吸をした。
あぁ、驚いた。まさか彼らとばったり出くわすなんて。あの場に瑞樹がいなくて良かった。居たら冷静でいられなかったかもしれない。
彼には、ちゃんと伝わった。
俺の心残りを全部受け止めてもらえたのだ。
そう思うと、心がすっきりした。
瑞樹の相手と直接話す機会なんてないと思っていたのに、絶好の機会に恵まれた。
そうか……
瑞樹と俺は、最後まで縁があったのだな。
そう思うと、あの7年間も無駄ではなかった。
瑞樹が今、幸せで……本当に良かった!
俺は今、俺を彩ってくれる世界を大切に、生きていこう!
「ふぅ……」
額に浮かんだ汗を拭おうとしたら、目が沁みた。
手の甲で拭うと、それは涙だった。
いつの間に……いつから……泣いていたのだろうか。
若い頃には分からなかったことが、歳を重ね、責任が増えてくるにつれ見えてくる。
生きているとさ、ままならないこともある、どうしようもないことも。
人生はいつも輝いて……希望で満ちあふれているわけではない。
挫折も後悔もつきものだ。
そこから、どう生きるか。
全部、自分次第だ。
****
「パパ、いいお湯になったねぇ」
「あぁ、本当にいい湯加減だ」
「あのオジサンの棒は、魔法なのかな。ボクも欲しいな」
「ははっ、あれは魔法じゃないよ」
「じゃあ何?」
芽生に聞かれて、少し考えてしまった。
瑞樹が付き合った男は、真心を持っていた。
瑞樹を一方的にふって、置いていった奴だ。瑞樹をあの日あの公園であんなに泣かせた男だと、正直恨んだこともあったさ。
まぁ……俺は世俗的で、聖人君子ではないからな。
ただ俺も……歳を重ねるにつれ、人生にはままならないこともあり、別れを選ばないと行けないときあることを学んだ。
真っ直ぐにゴールまで道を走っていけたらいいが……ハプニングで泣く泣く途中で棄権しないといけない時もある。病気、事故、いろいろなことが人生には突然やってくるだろう。
彼は、彼なりに……真心を尽くしてくれた。
この若木旅館という歴史を背負った彼の重そうな背中を見送った時、ふとそう思った。
「そうだな。彼の真心だったんだ」
「まごころ?」
「偽りや飾りのない、相手を大切に想い、尽くす心のことかな」
「むずかしいね。でもタイセツにしたいっていうのはわかるよ」
「そうか」
「お兄ちゃんのこと、パパ、ボクたち、ずっと大切にしようね」
「参ったな、芽生が先に言うのか。あぁ、俺たちふたりで大切にしていこう」
風呂場で芽生を抱っこしてやった。
愛しい息子。
俺の人生の応援者だ。
「芽生のことも大切にさせてくれ。瑞樹と一緒に芽生の成長を見守るのが、パパの楽しみだよ」
「うん。ボク、大きくなるよ! だって、もうすぐ小学生だもん!」
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