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幸せな復讐 33

 フロントに戻ると朝食を終えたお客様が大勢、チェックアウトの列に並んでいた。 「お疲れさん」 「あっ、一馬さん。今日は満室だったので、てんやわんやです」 「俺も手伝うよ」 「あ、ではお見送りの方をお願いします」 「そうだな」  宿泊のお客さまのお見送りは、宿主の勤めだ。お客様に感謝の気持ちを込め旅の無事を祈念して、頭を深く下げる。 「いい湯だったよ~」 「ありがとうございます。またお越し下さい」 「食事も美味しかったわ」 「ありがとうございます。光栄です」 「妻と写真を撮りたいのだが……」 「はい! お撮り致します」    すると……渡り廊下の向こうから、瑞樹たちがやってくるのが見えた。瑞樹は先ほどまでの白いシャツではなく、明らかに大きな薄紫のシャツを着て、腕まくりしていた。  あぁそうか。ジュースを零して濡らしてしまったから、彼のシャツを借りたのか。  薄紫のシャツの中で身体が泳ぐ様子は、まるで風になびく花びらのようだ。  いい水を得て、美しく花咲く瑞樹が眩しかった。  それから……瑞樹と手を繋いでいる坊やの服を見て驚いた。あの優しいオレンジ色のトレーナーは、親父が生前にまだ見ぬ息子の将来を夢見て買い込んでいた服と似ているな。  ぼんやり考えていると、驚いた事に瑞樹の方からまた話し掛けてくれた。  とても自然に……和やかな雰囲気だ。参ったな、君はどこまでも優しい人だ。 「あの、大切な服を貸してくれてありがとう。後でちゃんと返しに来るから」 「あ、あぁ。役に立って良かったよ」 「うん! とても助かったよ」  そうか、やはり親父が買った服なのか。俺の息子がいずれ着る服を、瑞樹が息子のように可愛がっている子供が着ているって、不思議な光景だ。 「オジサン! たいせつなおようふくを、どうもありがとう!」  ニコッと笑う芽生くんの明るい笑顔は、今の瑞樹の笑顔と似ていた。笑った顔が似ているって、まるで瑞樹の本当の息子みたいだな。お互いに信頼しあっている空気も伝わってくる。  瑞樹がこんなに子供好きだったなんて、知らなかった。  「君には、大変世話になったよ」  宗吾さんとも、今度はもっと自然に会話が出来た。   「はい! あの、いらして下さってありがとうございます」    瑞樹をここまで連れてきてくれたのは、きっと行動力がありそうな彼だ。きっかけを作ってくれたに違いない。普通の人ではなかなか出来ないよ。きっと……広い心を持っているのだな。 「居心地が良かったよ。古き良き歴史を大切にしながらも、ちゃんと新しい風も吹いていて……いい感じに調和しているな。風通しがいい宿だった」  それは、まさに俺たち若い夫婦が目指していることだった。励みになる、嬉しい言葉をもらった。    瑞樹、君は本当にいい人と巡り会った! 「ありがとうございます。その言葉を励みに精進します」 「あぁ、期待しているよ」  横で俺と宗吾さんとのやりとりを聞いていた瑞樹は、目を細め……蕩けそうに幸せそうな顔をしていた。 「あの……一馬、君に頼んでもいいか」 「何?」 「僕たちの写真を撮ってもらえるかな?」 「もちろん」 「ここを押してくれたらいいよ」 「あぁ」  瑞樹から渡されたのは、年季の入った一眼レフだった。こんな旧式のカメラを持っていたのか。俺も親父が一眼レフ好きだったので、扱いには慣れている。 「宗吾さん、ここで写真を撮っても?」 「もちろんだよ」 「ボク、真ん中がいい」 「おいで! 芽生くん」   俺は、瑞樹たちの家族写真を撮った。 ファインダー越しに見つめる瑞樹は、家族に挟まれて幸せそうに笑っていた。  優しいオレンジシャーベット色の光に包まれて。  深い大地に根ざして。  綺麗に咲く花のように。 「じゃあ、撮ります!」  カシャッ――  俺たちの進むレールは、2年前に分かれたが、今はそれぞれの道をしっかり歩んでいる。だからこその今、この瞬間だ。  自分を置いていった男までも、一人の人間として寄り添い、大切にする彼ならではの生き方。最後まで瑞樹らしいよ。  君はいつも花のように人を和ませ、人を癒やしてくれる。  ありがとう……瑞樹、君と縁があって良かったよ。 **** チェックアウトの客がはけると、スタッフが一斉に客室の清掃に入る。 「カズくん、家に戻って、春斗の様子を見て来てくれるかしら?」 「あぁ、いいよ」  妻に頼まれて、敷地内の母の家に向かった。 「春斗、いい子にしていたか」 「ぱ、ぱー」  覚え立ての拙い言葉に、よちよち歩きで、俺の胸に飛び込んでくれる息子が愛おしい。 「あっこぉ~あ、あ」  そのまま必死に両手を大きく広げたので、抱っこしてやった。 「わぁ!」 「母さん、ちょっとその辺一回りしてくるよ」 「この子はあなたの抱っこが大好きね。ついでに家から違うおもちゃ持って来てくれない? 飽きちゃったみたいで」 「よし、春斗、行くぞ」  息子を高く抱っこして、家に戻った。 「春斗ー、どのおもちゃにするか」 「ん! ん!」  自分であれこれ選んでニコニコ笑う様子に、俺の笑みも零れる。ふと庭先に目をやると白い物がはためいているのが見えた。春斗を抱っこして庭に降りると……それは瑞樹と芽生くんが朝食会場で着ていたものだった。 「なんだ、ここに、干していたのか」  春の空に浮かぶ、真っ白な雲のように爽やかな光景だった。  ここは大分、由布院。  由布岳から降りてくる春の息吹を受け止めて、ヨットの帆のように瑞樹の白いシャツがはためいている。  まるで俺たちの出航のようだな。  お互いに僅かに残っていた心残りから卒業して、違う船に乗った。でも、いつか大海原で偶然すれ違ったら、さっきみたいに手を振り合う仲になった。  もう恋人ではない。  かといって……元の友人の立場にも戻らない。    でも、確かな縁があった人になった。  それが、俺が由布院で出会った瑞樹だ。  

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