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見守って 24
「憲吾さん、もう駄目……もう駄目……っ」
「ガンバレ! ガンバレ! 美智」
汗びっしょりの美智の額を、ハンドタオルで拭いてやる。
辛そうな表情に、オロオロしてしまう。
ここは……私の固執してきた法の世界とは無縁だ。
自然の摂理に従って、人は子供をこの世に生み出すのだ。
古来……何も変わらない営みだ。
もう何時間も絶え間ない陣痛と闘っている美智と変わってやりたい。
男はこんな時、なんて無力なんだ!
私は……お腹の中の子供の父親なのに。
俺も汗だくで眼鏡を外すと、美智に笑われた。
不思議なことに陣痛の合間は、何事もなかったように痛くないようだ。
「憲吾さん、眼鏡取ると……急に若返るわね」
「え……っ」
「大学時代みたいで格好いい」
「そ、そうか……」
「ふふふ、赤ちゃんに眼鏡引っぱられて壊されちゃうかもね」
「またコンタクトにしようか」
「それもいいかもしれないわ。あ、痛い……痛」
痛みの間隔が更に短くなったようだ。そこに先生がやってくる。
「滝沢さん、どうですか」
「痛い……痛いです」
「子宮口の開きを、確認します」
先生が手袋をはめていると、美智のお腹に繋がれている機械が警報を発した。
「ん……? 赤ちゃんの心音が落ちている、いかんな」
その言葉に美智と私もひやり……ぞくりとする。
「え……いやよ! そんな!」
「先生、どうか!」
「落ち着いて下さい。まだ大丈夫です。ただ緊急帝王切開に切り替える可能性が」
「わ、分かりました」
「先生この子を助けて!」
俺たちは必死に手を取り合った。
「念のため最後に子宮口を確認しましょう」
「はい!」
先生の顔色が変わる。
「もう全開です。分娩台へ移動します! 旦那さん、立ち会い希望でしたよね、ガウンを着て一緒に!」
そこからはもう何が何だか……
夕方再び様子を見に来てくれた母さんが、『宗吾たちには知らせて置くから、二人で頑張ってきなさい!』と、力強く応援してくれた。
分娩台に入ってからは、私は眼鏡をしっかりかけて美智を応援した。
全部この目に焼き付けておきたくて。
「旦那さんは手を握ってあげて」
「はい!」
「励まして!」
「はい!」
とにかく美智を応援した。
私の手、私の声は……今はただ……ただ、美智を応援するために存在する。
そんな神秘的な時間を経て……
「んぎゃあ……ふぎゃ……おぎゃああ……」
産声が聞こえた時は、美智も私も涙と汗にまみれて、生命の神秘、誕生に感謝した。感涙した。
「憲吾さん、私……ママになったの?」
「あぁ美智……ママの誕生だ」
「じゃあ……パパの誕生ね」
すぐに臍の緒を切ってもらい、綺麗にしてもらった赤ん坊が美智の母なる胸の上にのせられた。
「お母さん、お疲れさま。さぁ、カンガルーケアー、つまりご褒美タイムですよ」
助産師さんが美智のおっぱいを絞ると黄色い初乳が少しだけ出た。
それを赤ちゃんが、小さな小さな口で少しだけ吸った。
あぁ……この赤ん坊は、私の娘だ。
美智も小さな赤ちゃんの重みや温もりや呼吸を感じながら、心穏やかな表情を浮かべていた。
「美智、お疲れさま。頑張ったな」
「憲吾さん、名前を呼ぼう」
ついに……二人で考えた名前をようやく呼べる。
「彩芽《あやめ》! 私がパパだよ」
「あーちゃん、ママよ」
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ついに誕生です!
五月の菖蒲から……彩芽《あやめ》です。
芽生の「芽」も入って、お気に入りです。
あーちゃんと呼んでくださいね。
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