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湘南ハーモニー 10
ドサッ――
目の前で、涼くんがいきなり倒れてしまった。
正確には顔に砂が付く直前に、宗吾さんが逞しい腕を差し出し、キャッチしてくれた。
「涼くん、大丈夫か!」
「宗吾さん、どうしましょう?」
「瑞樹、君は洋くんに連絡を取って」
「ハイ!」
「菅野くん、救護室はどこだ?」
「あっちです」
宗吾さんが的確にパパッと指示を出していく姿に、感動を覚えた。
本当に、頼りになる人だ。
心の中でまた好きになる……宗吾さんのことが。
宗吾さんの腕の中で、涼くんが瞬きを繰り返し、ゆっくりと目覚めた。
「あ……すみません。あのっ、いいです! 救護室は大丈夫です! 寝不足だったのでちょっと目眩が……少しだけ目立たない所で休ませていただけませんか」
「だが……」
彼は売れっ子のモデルなので、どうやら人目につくのを嫌がっているようだ。
今日はもうモデルの顔をするのに疲れてしまったのだろう。このまま救護室に行ったら、きっとまた女の子たちに騒がれて、彼を苦しめることになるだろう。
「宗吾さん、あの……よかったら僕たちのシェードに案内しませんか」
「あぁ、そうだな」
「葉山、そうしよう」
「管野、ありがとう!」
彼を中に案内して、先程買って来たばかりの冷たい水を飲ませてあげると、ぐっと楽になったようだ。
「あの、これ……僕の服でよければ、着替えてください」
「あ……あの、すみません。着替えは洋兄さんに持ってきてもらいますので」
「でも……それまでの間だけでも」
「じゃあ、ありがとうございます」
間近で見ると、本当に洋くんと似ているので、ドキドキしてしまうよ。僕の視線を感じたのか、涼くんがすまなそうに頭を下げた。
「あの……僕、洋兄さんにそっくりでしょう? 驚かせましたよね」
「いえ……その、なんだか不思議な心地で」
「よく言われます。でも10歳も年が違うんですよ」
えぇ? 双子に見えるのに?
洋くんって、ますます年齢不詳だな。
彼はまた怠そうに体育座りをしたまま顔を伏せてしまったので、僕から洋くんに事情を話すと、すぐに江ノ島まで来てくれるとの返事だった。
「涼くん、あの……僕たちは少しシェードの外で遊んでいるから、洋くんが来るまで、横になってゆっくりして下さいね」
「何から何まですみません。何だか……洋兄さんの友人だって聞いたら、気が揺るんでしまって」
僕は彼がモデルをしていることについて、ひと言も触れなかった。宗吾さんもそれに同意してくれた。
「瑞樹、今の彼に必要なのは、薬じゃなくて自由時間だろうな。少しでも彼が喜ぶことが出来るといいな。俺は瑞樹がいないと枯れる! 彼にも栄養剤になる誰かがいるといいな。それが特効薬さ」
「そうかもしれませんね。彼からは酷い『飢えと乾き』を感じます。水を補っても補っても足りないと感じるのは、きっと、そのせいですね」
宗吾さんと話し込んでいると、芽生くんが心配そうに僕を見上げてきた。
「お兄ちゃん。ねぇねぇ……あの、洋くんにそっくりなお兄さん、大丈夫?」
「そうだね。少し休めばきっと元気になるよ」
「よかった」
芽生くんもホッとした表情で、にっこり笑ってくれた。小さな芽生くんにも心配をかけてしまったね。すると宗吾さんが機転を利かせ、楽しい提案をしてくれた。
「よーし、芽生、ビーチボールで遊ぶか」
「わぁぁ~ やった! ゆうとくん、いっしょにあーそーぼー!」
「うん!」
芽生くんが大人しい、まだ幼稚園生のゆうとくんをしっかりリードしているのが、微笑ましいよ。
早速、宗吾さんがスイカ型のビーチボールをすごい勢いで膨らませてくれる。
「わぁい!」
さぁ、大人も童心に戻って遊ぼう!
太陽の光を浴びた瑞々しいビーチボールが、宙を大きく舞った。
「ほら、瑞樹!」
「はい!」
丸いボールを胸にキャッチして、それを優しく芽生くんへ。
芽生くんは弾ける笑顔で、両手を広げて待っている。
ゆうとくんとも意気投合して、はしゃいでいる。
円になり、丸いボールをキャッチしあう。
何でもない遊びに、僕の心は大きく凪いでいた。
大人も子供も……心を解放して楽しみたいと思う気持ちは同じだ。
楽しいことを素直に楽しめる、僕から一歩踏み出せる。
今はそれが嬉しい。
****
「誰かと思ったら安志じゃないか」
「へへっ、洋、来ちゃった」
「来ちゃったって……珍しいな。休日にわざわざ」
「モデルのサオリちゃんが鎌倉ロケで……ボディガードで来たんだよ。現地解散だったから、もうオフさ。つまり涼もいないし、暇なんだよ~ 洋、遊んでくれ」
俺に泣きつくのは、幼馴染みの安志。
彼は都内の警備会社に勤めている。
特に護衛の仕事ぶりが評判で、よく芸能人からも依頼されているようだ。
「涼は?」
「今日は千葉で取材だってさ」
「そうか。まぁ……上がれよ」
「お邪魔します~ 丈さんがいない時に上がるのは気が引けるが」
「丈? 丈ならいるよ」
「げげっ!」
「今日は丈もオフで、今はちょっと母屋に行っているよ」
安志がおそるおそる辺りを見渡した。
「洋のところは……相変わらずラブラブでいいな」
「……安志にも涼がいるじゃないか」
「でもさ……ここ10日ほど、会えてないし、電話も出来ていない」
「そんなに忙しいの?」
涼、大丈夫かな? また頑張り過ぎていないといいけれども……
そう思った矢先だった。
瑞樹くんから意外な一報を受けたのは。
「え! 涼が……! 今すぐ行くよ。『片瀬東浜海水浴場』だね。うん、江ノ島寄りの水色のシェードで、『かんのや』って書いてあるんだね。分かった。そこに行くよ」
俺の電話を、安志が息を呑んで聞いていた。
「洋、どうした? 何があった? 涼がそこにいるのか」
「取材で来ていたらしいよ。少し具合が悪くて、偶然出逢った瑞樹くんのシェードで休ませてもらっているらしい」
「瑞樹? 誰だ? それ……」
「あ、俺の友人」
「洋の?」
安志が意外そうな声を出す。
「とにかく迎えに行こう。俺が車を出すよ」
「おぅ!」
「あっ……着替えを持って行かないと」
「アイツ、やっぱり無理して……心配かけて」
安志は車中で神妙な顔をしていた。
「安志……そんな顔はしないでやってくれよ。あの子なりに頑張っているんだ」
「だが、こんなに心配をかけて」
そうか……俺も丈にこんな思いをさせていたのか。
どちらの気持ちも分かるので、胸が痛んだ。
****
「瑞樹、いい風が吹きそうだぜ」
「? どういう意味です」
「見ろよ。涼くんの栄養剤の到着だぜ、ははん、やっぱりそうか」
宗吾さんが指さす方向には、洋くんと、その前を、血相を変え走ってくる黒いスーツ姿の男性が見えた!
風が吹き抜ける。
爽快な風が――
きっとこれは、涼風になる!
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