969 / 1738

花びら雪舞う、北の故郷 35

 どうしても……今すぐ瑞樹の細い身体を抱きしめて、確認したかった。  この熊田という男性の素性はまだよく分からないが、瑞樹のお父さんの弟子だったのは確かで、瑞樹を幼少の頃から知っているようだ。  そして俺と瑞樹の関係を柔らかく受け入れてくれているのが、彼の温かみのある眼差しから伝わってきていた。  信じていいんだな。  だから迷わず君を抱きしめた。  骨折も捻挫もしていないなんて、奇跡的だ。  あの高さの崖から落下して、よく無事でいてくれた。  崖を見下ろした時は、軽井沢で傷つけられた悲惨な姿が走馬灯のように浮かんで、怖かった。 「宗吾さん、僕は無事ですよ」 「瑞樹……」  瑞樹が俺の手を取り、1本1本丁寧に指を絡めてくれた。 「手も、ほら……ちゃんと動きます」  あの日麻痺してしまった細くて長い指を、滑らかに動かして見せてくれた。  よかった。無事だった。 「よかったよ。本当に良かった」  瑞樹が晴れやかな笑顔で、芽生を抱き上げる。 「芽生くん、ごめんね。心配かけて」 「お兄ちゃん、ぼく、とってもしんぱいしたよ。でもキツネさんが、だいじょうぶって、いっていたよ」 「え? キツネ?」  窓の外を見ると、俺たちを導いてくれたキタキツネが立っていた。 「あ……僕もあのキツネに呼び止められたんです」 「導いてもらったんだな」 「そう思います。崖から落ちたのは大失敗でしたが」 「これからは、まず俺に連絡くれよ」 「はい、ごめんなさい」 「無事で良かった」  それから皆で2階に移動した。  階段を上がって左の扉を開けると……  ログハウスの木の壁一面に、白い額縁が並んでいた。  そこに溢れるのは、笑顔……笑顔、笑顔だった。 「この少年は、瑞樹だな」 「はい、10歳の僕です。こっちが弟の夏樹。そして……お父さん、お母さん……僕の家族です」  瑞樹が、まるでその場にいるように紹介してくれる。  1枚1枚の写真の前に立って、目を細めて説明してくれる。 「これは母が撮影したんですよ。夏樹がじっとするのに飽きちゃって、僕に抱っこをせがんで」 「夏樹くんは、今の芽生と同じくらいの身長がありそうだな」 「まだ5歳でしたが、背が高かったので、僕……将来抜かされてしまうかなって心配していたんですよ」  そうか、もしも生きていたら、今22歳か。  瑞樹に似た顔立ちだが、もう少し凜々しい青年になっていたのだろう。 「お母さんを撮ったのは、お父さんです」 「お母さん、キレイだな。お、白ツメ草の花冠をしているな」 「ありがとうございます。これ……僕と夏樹で作ったんですよ」  いろいろ思い出しているようだ。  聞けば自然に教えてくれる。  瑞樹は母親似だな。  とても美人で……可憐な雰囲気が野の花のような女性。 「そして僕のお父さん……これはお母さんが撮ったんですね。あの日は何故か、お互いを撮影しあって、とにかく写真を沢山撮ったことを思い出しました」  ヤバイ。  泣きそうだ。  まるで今生の別れが近づいているのを、知らず知らずに感じていたようなエピソードが切ないよ。 「大樹さんは山岳フォトグラファーで、俺は山小屋の息子で……このログハウスは元々は大樹さんの仕事場だったんだ。さっき君が開けた現像部屋は、みーくんのお父さんが使っていた当時のままなんだぞ」  今、解き明かされる父親のこと。 「くまさん。僕……幼くて父のこと何も知らなかったんです。もっと、もっと教えて下さい」  熊田さんが1冊の写真集を取り出して、プロフィール部分を開いてくれた。 ……  Nitay(ニタイ) 山岳フォトグラファー    北海道生まれ。好きな絵画の影響から15歳から独学で写真を学び、20歳の頃から山岳写真に傾倒する。カメラマン兼ライターとして撮りためた作品を雑誌などに発表。 …… 「これ、大樹さんのことだよ」 「あ……やっぱりこの人だったのか」 「宗吾さん、僕が一番惹かれた写真でした。お父さんの写真だったのですね」 「あぁ、そうだな」    俺と瑞樹の勘は当たった。  絶対に縁があると思っていたのだ。  ニタイはアイヌ語で木や森を意味する言葉だ。 「俺が今はその名を引き継いでいるんだ。烏滸がましいが」 「くまさんのこと……父はとても信頼していました」 「みーくん……ごめんな」 「え?」  熊田さんが突然、ガバッと頭を下げた。 「なんで頭を下げるんですか」 「全部、俺のせいだ」 「何を言って?」 「あの日、写真の現像をもっと勉強したくて……何か現像する写真を届けて欲しいと強請ったから、ピクニック帰りにわざわざここに立ち寄ってくれたんだ。その寄り道がなければ、雨が酷くなる前に家に帰れたのに……俺が……」  熊田さんの背負ってきた重たいものを、ひしひしと感じた。  これはキツい枷だったのでは? 「そんな……そんなことありません。僕は一度もそんな風に思ったことはありません」  瑞樹がそこは断言する。 「僕があの事故で過去の記憶を封印してしまって……今日の今日までくまさんのことも思い出せず、すみません。もっと早くここにくるべきでした」 「いや、今日だから……今だからいいんだろうな」 「くまさん、もっともっと両親のことを教えてください。くまさんがいてくれてよかった! 僕の知らないお父さんのこと、お母さんのこと教えてもらえる人だから……」  瑞樹が切なく訴えると、熊田さんはその言葉をしっかり受け取ってくれた。 「オレが全部知っているよ。君のご両親の馴れ初めも……」    道が開かれる。  閉ざされていた記憶の扉が今。    

ともだちにシェアしよう!