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花明かりに導かれて 12
俺は、この家で瑞樹を全力で守っている気になっていた。
外で何があろうと、家の中は平和で和やかな場所だと。
ここは俺と芽生と瑞樹、三人の家だと自負していた。
くまさんに指摘されるまで、そんな基本的なことにも気付かないなんて、不甲斐ない。
寝室の真っ黒な天井を見上げて、深い溜め息をついてしまった。
「宗吾くん、ちょっといいか」
「あ、すみません。もう少し飲みます?」
くまさんも寝室の天井を見上げて、苦笑していた。
「これはまた……真っ黒だな」
「これじゃ、暗黒の世界ですよね」
闇夜。
瑞樹はこの寝室で眠る時、この天井を見上げて何を思ったか。
やはり胸が塞がってしまう。
そう言えば……彼は仰向けではなく、いつも俺の方か芽生の方を向いて眠っていた。
その理由が、今になって分かる。
瑞樹……怖かったんだな。
一寸先は闇だということを、身を持って知った君だから。
「なぁ、俺は分譲マンションの仕組みがよく分からないが、壁にペインティングしてもいいのか」
「構いませんよ。売る時は現状で売るので……そもそもこんな真っ黒な天井は好まれないので、買い手側がリフォームするでしょうし」
「なるほど。じゃあ、ちょっと弄ってもいいか」
「何を?」
大沼のコテージで自給自足の生活をしていたので、何かいいアイデアがあるのかも……藁にも縋る気持ちになっていた。
「ちょっと待ってろ」
くまさんが担いできた大きなリュックの中には、カメラの道具以外にも、色々詰まっていた。
「おお! あったあった!」
「なんです?」
「坊やを喜ばせようと思って持って来たんだが、こんな所で役立つとは」
手にしていたのは『夜光塗料』だった。
「やっぱり夜空には星がないとな」
「あっ……」
くまさんが何をしようとしているのか、合点がいった。
「脚立ならあります」
「おぅ! 一緒に描くか」
「瑞樹の両親と弟の星を……是非」
「……大樹さんと澄子さん、なっくんを結べば『幸せ座』になるのかな?」
「そうだと思います」
この人は、いつもこうやって独りで夜空を見上げていたのかもしれない。
俺たちは脚立に代わる代わる登っては、星を思い思いに描いた。
俺はくまさんが描いた三つ星の横に、また三つ星を描いた。
これは俺と瑞樹と芽生の星だ。
俺たち家族がずっと仲良くいられますように……希望を込めて。
「これ、明日、みーくんと坊やに見せるのが楽しみだな」
「きっと驚くでしょうね」
「喜んでもらえれば、嬉しいよ」
くまさんと俺の共通の喜びは、大切な人の笑顔を見ることだ。
「宗吾くん……この手で出来ることって無限なんだな」
「俺もそう思います!」
本当にそうだ。
手は物を掴むためだけではない。
大切な人の幸せを願い、そのために暗黒の夜空に星を描くことも出来る。
「笑顔って連鎖するんだな。俺はもうこの17年間……すっかり忘れていたが、みーくんの笑顔がすべてを解かしてくれたんだ」
****
孫の小さな手は、愛娘の菫と見知らぬ男性によってしっかり繋がれていた。
彼が着ているセーターの色に目が留まる。
あれは菫色だ。
ちょうど、庭先に開花したばかりの菫と同じ色だ。
『受けいれてあげてください』と花の精が囁いているように柄にもなく感じた。
「彼が菫の話していた男なんだな」
「そのようですね」
想像よりずっと若い青年だ。体格が良く、腕の力もありそうだ。
そのことにも、ハラハラする。
菫から樹がすっかり懐いているとは聞いていたが、半信半疑だ。
夫が亡くなってからずっと独り身を貫いていた娘からの、突然の再婚話には、私も妻も心底驚いた。
「じーじ! ばーばぁ~」
「おぉ、樹、元気にしていたか。また大きくなったな」
愛おしい孫のはち切れそうな笑顔。
こんなに嬉しそうな笑顔を見るのはいつぶりだろう?
いつも寂しそうな顔だったのに。
この笑顔を生みだしてくれたのは、その彼なのか。
「あのね、あのね、いっくんのパパをつれてきたよ」
おっと、いきなり孫から紹介されるとは。
彼は緊張した面持ちで、深々とお辞儀をした。
「葉山潤です。オレは北海道函館市出身で今は軽井沢のイングリッシュガーデンで庭師の仕事をしています。す……菫さんといっくんと……結婚を前提にお付き合いさせていただいています」
玄関先で覚悟を決めて言い切った彼の態度に、私達夫婦の緊張の糸もふっと解れた。
なかなかいい気構えだな。
「立ち話もなんだから、中に入りなさい」
「おっ、お邪魔します」
彼の語尾は、微かに震えていた。
かなり緊張しているのだろう。
そこが初々しいと思った。
そこに好感が持てた。
「お父さんお母さん、あの……驚かせて、ごめんなさい」
居間に入るなり、今度は菫からも詫びられた。
「あぁ、驚いたよ。菫はずっと独り身で行くのかと思っていた」
「……いっくんを託せる人が見つかったの。私も共に歩んでみたい人だと思えたの」
いっくんニコニコと甘えた様子で、青年の膝の上に座っていた。
恥ずかしがり屋の樹が、こんなに懐いているなんて。
目の当たりにして拍子抜けした。
「パパ、あのね、いっくんの、じじとばばは、とってもやさしいんだよぅ。だーいすき」
砂糖菓子のようにふわふわな言葉に和むよ。
「あの……これっ」
バスケットに入ったチョコレート、そして覚悟の籠もった言葉を再び受け取った。
「オレ……菫さんと一緒に生きていきます。いっくんの成長を見守らせて下さい!」
「お父さん、お母さん、私からもお願いします」
「いっくんのパパとママを、よろしくおねがいしましゅ。えへっ」
三人の心が仲良く揃っているのを感じた。
「う、うむ。最後に一つだけ聞いてもいいか」
「はい」
「ずっと……何があっても樹を愛してくれるか」
「もちろんです! 信じてもらえるように努力します」
『信頼』か。
大切な言葉を、彼は知っているんだな。
預けてみようか、この若い青年に。
任せてみようか、このひたむきな目の青年に。
愛娘の菫と……大切な孫、樹を。
「君は菫の花言葉を知っているか」
「『謙虚』『誠実』『小さな幸せ』です」
「君は……本当に菫を大切にしてくれるんだな」
「菫さんは、普段は控えめでおっとりとしているのに、いざという時、頼りになる芯の強い女性です。俺は彼女を尊敬しています。そして信頼しています」
もういいだろう。
もう充分過ぎる程の覚悟を受け取った。
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