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賑やかな日々 9
朝起きると一番端のベッドに芽生の姿が見えなかったので、一瞬ギョッとした。
だが、すぐにそれは微笑みに変わった。
瑞樹が愛おしそうに、自分のベッドで芽生を抱きしめて眠っていた。きっと瑞樹の予想通り、真夜中に芽生が怖い夢でも見て駆け込んだのだろう。
瑞樹の寝顔は、どこまでも幸せそうだった。
「二人とも、可愛い寝顔だな」
君は芽生を天使と呼んでくれるが、俺には瑞樹も天使だぞ。
白いシーツ、白い布団、白いホテルのパジャマ。白は汚れなき色で、そんな色が似合う人だから。
昨晩、裸で揺さぶられ薔薇色に上気した肌は、今は透き通るように落ち着いている。
俺は、この穏やかな朝を守る人でありたい。
じわじわと愛おしい気持ちが、朝日と共に上昇してくるよ。
枯れることのない愛。
どこまでも成長する愛。
「俺ももう少し眠るか」
たまには寝坊もいいもんだ。二人を起こさないように、再びベッドに潜った。朝食は昨夜のうちに密かにルームサービスを希望しておいたので、ゆっくり過ごそう。
ところが二度寝のせいか、珍しく過去の夢を見てしまった。
ガシャンっと愛用のマグカップが床に叩きつけられる音。
ガチャンと玄関がしまる音。
幼い芽生の寂しそうな泣き声。
そこから……走馬灯のように苦い過去が溢れ出す。
眩しかったバス停から見る光景。
瑞樹の笑顔は、俺ではない男のものだった。
そんな君を見つけた公園。
礼服のまま泣きじゃくる君を、今すぐ抱きしめてやりたい気持ちを抑えて差し出した四つ葉のクローバー。
そんなに泣いて……見ていられないよ。
どうか俺を見てくれよ、瑞樹……
俺はここだ、瑞樹!
待て! 行かないでくれ!
「……瑞樹!」
ガバッと飛び起きると、瑞樹が心配そうに俺を覗き込んでいた。
「あ……悪い、寝言を言ったか」
「宗吾さん、うなされていましたよ。大丈夫ですか。お水を持ってきますね」
「水より、君を抱きしめたい」
「あ、はい……」
瑞樹がふわりと俺を包み込んでくれる。
今の夢、なんだ? 幸せが揺らぐようで怖かった。
かつて君が幸せが怖いと言った意味が、少し分かったような気がした。
「宗吾さん、何度も僕を呼んでいましたよ」
「……君と出会った頃の夢を見ていたんだ」
「僕も宗吾さんとのこと思い出していましたよ。26歳で宗吾さんと出会い、27歳で同棲を始め……えっと僕の中では同居の方がしっくりきます。家族が一つの家に住むという意味の方が好きなので……それで28歳で幸せな復讐に付き合っていただいて……」
「もう3年か……」
「はい、僕は昨日で29歳になりましたが、30代も40代も、シルバーグレイになってもずっと宗吾さんと一緒にいたいです、芽生くんの成長も巣立ちも一緒に見守りたいです」
瑞樹がずっと先の未来の話をしてくれるようになった。
「瑞樹……ずっと俺だけを見ていて欲しい」
夢の影響なのか子供みたいに駄々をこねると、瑞樹がもっと深く優しく俺を抱きしめてくれた。
芽生をさっきまで抱いていた胸元は、とても温かく居心地が良かった。
「はい。僕は宗吾さんだけを見つめていきます」
「瑞樹……ありがとう」
こんなに優しい朝を、俺は玲子との結婚生活では残念ながら見いだせなかった。ただ心を寄り添わすだけで、幸せというものが容易く生まれることを知らなかった。
「俺、今とても幸せだよ」
「宗吾さん、それは僕の台詞ですよ。昨日は夢のような一日でした」
「君の笑顔を沢山見られて、幸せだった」
その後、芽生も起きてきて、パジャマのままルームサービスの朝食を取った。
そうそう、5月3日は憲法記念日で毎年必ず祝日になる。瑞樹の誕生日の翌日が、いつも休みというのはいいものだな。
「次は芽生くんの誕生日だね」
「うん。でも今日はまだまだお兄ちゃんのおたんじょうび会だよ」
「そうなの?」
「パパがそういっていたよ」
「宗吾さんってば」
「はは、今日は祝日だ。もう少し余韻に浸ってもいいだろう。これは後夜祭さ。俺は根っからのお祭り男だから名残惜しいんだよ。さぁ今日は何をしたい? どこに行きたい? 何でもいいから言ってみろ」
そんな提案をすると、瑞樹は真面目に考え込んでしまった。
「なんでもいいぞ、どんとこい!」
どんな贅沢でもさせてやる。遊園地でも水族館でもプラネタリウムでもショッピングでも、何でも叶えてやる!
「では……一度家に戻ってから、あの公園に行きませんか。僕たちのスタートの場所に」
「わぁぁ、ボクもあの公園だいすき!」
「芽生くんにもらった絵を見ていたら、お兄ちゃんね、ピクニックをしたくなったんだ」
「うれしい! うれしいよ! お兄ちゃん、だーいすき」
瑞樹は人の心を掴むのが、上手になった。
まさか夢とリンクする希望を言ってくれるなんて。
悪夢になりそうな夢が、一気に良いものとなっていく。
俺の心に寄り添ってくれる瑞樹。
君は永遠に、俺の幸せな存在だ。
チェックアウトまでは、ホテルの客室でゆったりと過ごすことにした。
芽生は客室の窓から見える電車の往来に、夢中になっていた。瑞樹は潤くんのウェディングフラワーのデザインをしているようだ。俺は瑞樹に借りた本を読んで、それぞれ、のびのびと過ごした。
家族が別々のことをしていても、心が繋がっているので少しも寂しくない。
玲子と暮らしていた頃、俺が家庭を蔑ろにしていたせいか、休日の空き時間が苦手だった。疎外感を抱き、結局ゴルフやスポーツクラブに映画と、何かしら理由を作っては家を一人で出た。最低だったな。
今はそんなこと興味もないし、時間が勿体ないと思う。
こんな風に各自、思い思いのことを出来る時間もいいものだな。
「宗吾さん、潤の結婚式楽しみですね。皆で行けるのが本当に嬉しいです」
デッサン帳を閉じた瑞樹は、描いているうちに胸が一杯になったのか、頬を上気させていた。
「皆でお祝いしような」
「はい」
「なぁ、俺たちもいつか結婚式をあげないか」
前々から考えていたことを口に出すと、瑞樹は少し困った顔で笑った。
「……僕はもうこれ以上の幸せは怖いです」
「……君は相変わらず慎ましいな」
「あの北鎌倉で指輪交換したのが、僕の中では結婚式ですよ」
「確かにあの日は最高だったよ。まぁ、このことは、おいおいな」
口に出せば実行したくなる。
だが俺ばかり先走っては駄目だ。瑞樹からも自然としてみたいと思えるようになったら、その時はきっと実現させよう。まずは潤くんの結婚式で、刺激を受けて欲しいものだ。
俺の中で、その日がやってくるまで、この夢を大事に膨らませていこう。
何でも即物的に手に入れるのではなく、ゆっくりと時間をかけて気持ちを揃えていく醍醐味を、瑞樹からはずっと学んでいる。
やがてチェックアウト。
昼過ぎにマンションに帰宅すると……
「えっ?」
玄関の前に誰かが蹲っていたので、ギョッとした。
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