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賑やかな日々 10

 宗吾さんに、朝からルームサービスという、なんとも贅沢な体験をさせてもらった。その後は少し自由に過ごそうと提案までしてもらったので、僕はスケッチブックを取り出し、花のデザインを考えることにした。  今月末は、いよいよ潤の結婚式だ。  ウェディング・ブーケ全般を任せてもらえるなんて、光栄だ。  潤のために、僕の全力を注ぐよ。  今の僕は、こんなに満ち足りた気分になっている。 幸せな気持ちで、鉛筆を握った。  菫さんには、やはりスミレ色のブーケにしよう。夢があってロマンティックな雰囲気に……道端にひっそり咲くスミレの花言葉は「謙虚」「誠実」「小さな幸せ」で、本当に彼女にぴったりだ。それから紫一色ではなく白の菫を、いっくんをイメージして加えよう。白い菫の花言葉は「無邪気な恋」だ。  潤は胸板が厚く肩幅も広いから、コサージュは大きめがいいね。  さらさらとスムーズに鉛筆が動いて、大方のデザインが固まった。  お昼間に荷物をまとめチェックアウトし、真っ直ぐにマンションに戻ることにした。  エレベーターを降り廊下を歩いていると、僕の目に大きな人影が飛びこんできた。誰かが玄関のドアにもたれて、うなだれている。  でも……顔など見なくても分かるよ。  だって彼は……僕のこの世のお父さんだ! 「くまさん! 森のくまさん!」 「わぁぁ、おじいちゃんだ」 「やっぱり熊田さんでしたか」   僕だけでなく全員がくまさんだとすぐに気付いた。駆け寄って芽生くんが肩を揺さぶると、ようやく目を覚ました。   「おぅ、坊やじゃないか」 「くまさん、どうしたんですか。いついらしたんですか」 「あぁ……みーくんか。ふぅ、よかったよ。帰ってこないかと思った」 僕がくまさんの前に跪くと、頭をよしよしと三回撫でられた。 「今朝、始発の飛行機で飛んできたのさ。1日遅れてごめんな」 「えっ」 「みーくん、誕生日おめでとう!」 「あ……」  予期せぬ出来事に、心臓がバクバクする。  僕……小さい頃、いつもくまさんに、こうやって祝ってもらっていた。 …… 「みーくん、お誕生日おめでとう」 「くまさん! 今年は何をくれるの?」 「ははっ、毎年同じ物で悪いな」 「ううん、それは大丈夫。ただ何のお花のハチミツかなって」 「今年はクローバーだよ。10歳の誕生日おめでとう」 ……  一瞬のうちに、当時の情景を鮮明に思いだしていた。 「どうしても、渡したくて来てしまったよ」 「瑞樹、玄関で立ち話もなんだから中に入ろう」 「あ、はい」  くまさんは髭も髪も伸び放題になっていた。  芽生くんが「くまさん、おひげとかみでお顔がよく見えないよ」 と言うと、笑っていた。 「一人だとつい無精してしまうんだ。悪い、悪い」 「くまさん、もしかして……あの、お誕生日スペシャルの蜂蜜ですか」  もう待ちきれない。きっとあのくまさんが養蜂した蜂蜜だ。  大沼で会った時にもお土産でもらったが、これは特別だ。お誕生日にしか食べられない、スペシャルなものだから。 「そうだ。覚えていてくれたのか」 「今年は何の味かなって……」  10歳の時と同じ台詞を言うと、くまさんの瞳が潤んだ。 「あれから一度も渡せなくてごめんな。だが、みーくんの好物だって知っていたから、養蜂はやめられなかったよ」 「嬉しいです。あぁこれです」  手の平にのせられたのは、特別な蜂蜜の瓶。 「あ……このラベルって……もしかして」 「君たちが描いてくれた物だよ。沢山作ってくれたから、ずっと取っておいたんだ」 「うっ」     駄目だ、やっぱり涙腺が崩壊してしまう。  僕と夏樹はくまさんが作る蜂蜜が大好きだったから、ある日ふたりでラベルを沢山描いたんだ。 『くまのはちみつやさん』 これは僕の字で、愛嬌のあるクマのイラストは夏樹がクレヨンで描いたものだ。 「こっちは、なっくんの絵だな」 「はい」 「わぁ、かわいいクマさんだね。ナツキくんって絵が上手だったんだね」 「芽生くん、ありがとう」 「瑞樹良かったな」 「はい……まさかこのラベルを、また見られる日が来るなんて」  すると、くまさんが咳払いをした。 「あのさ……コホン、なんか……ごめんな。突然やってきて」 「いえ、嬉しいです」 「そうですよ、我が家はいつでも歓迎ですよ。瑞樹のお父さんですから」 「ボクもくまさん、だいすきだよー」  くまさんは背負ってきた大きなリュックから、細長い箱を取り出した。 「それからこれも渡したくてな。みーくん、9年も遅れてごめんな」 「9年?」 「これは君のお父さんからの預かり物だ」 「何ですか」 「開けてみてくれ」  中には赤ワインが入っていた。 「あの……これお父さんが?」 「ラベルを見てくれ」 「1993……は、僕が生まれた年ですが」 「これはな、大樹さんがみーくんが二十歳になった時に一緒に飲もうと思って、山小屋のセラーに保管していたものだよ」 「え……お父さんが僕の成人を祝おうと?」 「そうだ。9年も過ぎてしまったからもう飲めないかもしれないが、大樹さんの気持ちを一刻も早く届けたくて来てしまったんだ」  本当に感動した。  時を超えて僕の元にやってきたワインは、お父さんの夢を乗せて、ここまでやってきたんだ。 「くまさん、ありがとうございます」  僕は嬉しくて、くまさんに子供みたいに抱きついてしまった。 「おっと、ははっ、良かったよ。衝動的に来たのはいいが、いきなり留守でがっかりしてしまってな。不安が不安を呼んだようで……君と再会できたのも全部夢だったのかと、怖くなってしまった」  くまさんの不安、痛い程分かるよ。 「くまさん、夢なんかじゃないです。全部現実で本当です。そうだ……この後、一緒にピクニックに行きませんか。僕たちと一緒に」 「一緒か……うれしいな。それなら俺がサンドイッチを山ほど作ってきたから持っていこう」 「はい!」  僕たちは、今度は四人で歩き出す。  あの日、宗吾さんと芽生くんと出会った公園に向かって。  足取りは軽い。  頬を、優しいそよ風が撫でていく。  もう大丈夫、みんな幸せねと。  

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