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誓いの言葉 10

 こんな日に限って、仕事がトラブってバタバタだった。  放課後スクールを19時まで延長してもらい、バタバタと教室に駆け込んだ。 「はぁはぁ……芽生、悪かった! 遅くなった」 「……あれ? お兄ちゃんは?」  芽生の顔が少し曇ったので、大人げなく苛ついてしまった。 「瑞樹は急な出張で、函館に行ったんだ。今日は戻らないよ」 「えー ハコダテ! いいなー ボクもいきたかったなぁ。いいなぁ、くまさんにも会えるんだぁ、いいなぁ」  瑞樹は遊びに行ったわけではなく、リーダーに見込まれて大切な仕事に行ったのに……芽生の無邪気な羨望に、また苛ついてしまった。 「芽生、瑞樹は仕事で行っているんだ。うるさいぞ」  あ、まずい。芽生の肩がビクッと震えてしまった。 「う、うん、わかった。もう言わないよ。お兄ちゃんがんばっているんだもんね。じゃあ今日はパパと二人だね」  芽生が必死に取り繕うとしているのに、俺のイライラは収まらない。  仕事でのゴタゴタのせいで、心がギスギスしている。  ひねくれた答えを、まだ8歳の息子にするなんて……最低だ。 「……悪かったな」 「パパ、どうしたの?」 「今日はパパ疲れているから、夕食は弁当でいいか」 「うん!」  結局、コンビニ弁当を買って家に帰った。  芽生は俺が疲れていることを察知したらしく、洗濯物を畳んだり、積極的に手伝ってくれた。  以前は、こんなこと出来なかったのに……全部、瑞樹が教えてくれたのだな。  それから背伸びして、俺に麦茶まで入れてくれた。 「パパ、おつかれさま」 (そうごさん、お疲れ様、少し落ち着いてくださいね)  まるで瑞樹の声が聞こえるようだ。    「ありがとう。よく気付いたな」 「えっとね。お兄ちゃんがいたら、こうするかなって」 「芽生……パパ、うれしいよ」  芽生を抱きしめると、芽生も柔らかく笑ってくれた。  そこからは和やかにコンビニ弁当を食べた。  ふたりきりで暮らしていた頃に、逆戻りしたみたいだな。  時計を見ると、もう8時を過ぎていた。 「芽生、そろそろ風呂に入らないとな」 「わかった! ボクもおかたづけ、てつだう!」 「ん?」 「しょっきをしまうのなら、できるよ」 「そうか、じゃあ、パパは風呂を洗ってくるから頼む」 「はーい!」  すっかり瑞樹と家事を分担するのに慣れ過ぎて、動きが緩慢になる。芽生が朝の食器を食器棚に運ぶというので任せて、俺は風呂場に向かった。  そういえば、芽生と二人で暮らしていた時、掃除する時間がなく、風呂場をヌルヌルのカビだらけにして母さんに叱られたな。瑞樹と暮らすようになってから、風呂場はいつも清潔でピカピカだ。瑞樹が掃除好きなので隅々まで行き届いている。  湯船をモップで洗っていると、台所方面からガシャンと何かが割れる音がした。 「どうした?」 「あ……ご、ごめんなさい」  芽生が真っ青な顔をしている。 「ふぅ、怪我はなかったか」 「うん……だけど……どうしよう」  近づいて芽生の足下を見ると、瑞樹が愛用しているグリーンのマグカップが粉々になっていた。 「おい!」 「お、お兄ちゃんの……わっちゃった……ご、ごめんなさい」 「何てこと、してくれたんだ!」 「……う……うわーん」  しまった。今日は本当に駄目駄目だ。父親失格だ。  瑞樹がいないと、俺は駄目だ、こんなに雑になってしまうよ。  だが瑞樹がいつも美味しそうにココアを飲むマグカップが、跡形もなく割れてしまったのはショックだった。  不吉だ。まさか……瑞樹に何かあったのでは?とヒヤリとしてしまった。 「芽生はもう向こうに行ってろ。パパが片付けるから」 「う……うん……ぐすっ」  泣いている息子にもっと優しい一言をかけられたらいいのに、猛反省だ。 「お……お兄ちゃ……ん」 「瑞樹……」  俺と芽生の声が揃った。  瑞樹、君を呼ぶ声が……  瑞樹からの電話はそのタイミングでかかってきた。 「宗吾さん、芽生くん、大丈夫ですか」  瑞樹の優しい慈悲深い声に、泣きそうだ。   「瑞樹ぃ~」 「お兄ちゃん」   ふたりで受話器を奪い取ってしまう。 「え? 何かあったのですか」 「お兄ちゃんがいないの!」 「瑞樹がいない!」  俺と芽生、思考回路が一緒だ。瑞樹のこととなると意気投合だ。 「ごめん」 「ごめんなしゃい!」  瑞樹はキョトンとしている。 「二人とも落ち着いて下さい。何か……あったのですか」 「あぁ……いや、瑞樹の愛用のマグカップが割れてしまったんだ。ごめんな。大切なものだったんだろう。あれは」 「あ……そんなことだったのですか。良かった。二人に何かあったのではと心配しました」  瑞樹は本気で気にしていないようだった。 「あのマグカップ……僕が持ってきたものでしたね」 「あぁ……だから悪かったな」 「いえ、いい機会でした。このタイミングで割れて良かったのかも」 「どういう意味だ? あれか……前の……」 「あ、いえ、そういう物はもう全部処分しました。あのマグカップは……昔、父の日に買ったのです。贈る相手もいないのに無性に買いたくなって……で、結局自分が使っていたんですよ」 「……そうだったのか」 「でも、もういらないな」  電話口の瑞樹は、満ち足りた声だった。  俺は芽生を膝に乗せて、電話をハンズフリーにして瑞樹の優しくて甘い声に耳を傾けた。 「お、お兄ちゃん、あのね、ボクがわっちゃったの……ごめんなさい」 「芽生くん、お手伝いできたんだね。ありがとう。今日はパパ、疲れていたみたいだね」 「うん、ボク……お兄ちゃんみたいにお手伝いしたかったのに……手がすべって……ごめんなさい」 「謝らなくていいんだよ。あのね、あのマグカップは今日割れてよかったんだよ」 「だから、どういうことだ?」  瑞樹は、どこから話そうか迷っている様子だった。 悪いニュースではなくて、幸せな話がきっと聞ける。そんな予感は的中した。 「実は今日分かったのですが、くまさんが、僕の本当のお父さんになってくれるんですよ。だから、もう……寂しい思い出の積もったマグカップはいらないです」 「ん? 本当のお父さんって、どういう意味だ?」 「あの……実は僕の函館の母が再婚します」 「へ?」  唐突に言われて、頭がついていかない。 「それと何か関係が?」 「だから……母とくまさんが結婚するんです」 「け、けけっ、結婚ー!!!!」 「なになに? パパ、どういうこと」 「芽生におじいちゃんが出来るんだよ、くまさんが芽生の本当のおじいちゃんになるんだぞ」  瑞樹の本当のお父さんなら、芽生の本当のおじいちゃんだ。戸籍なんて関係ない! 「ほんと? ボク、おじいちゃんほしかったよ」  なんて幸せなニュースなんだ!  瑞樹の父親代わりを申し出てくれたくまさん。  といっても……やはり他人なので、遠慮と壁があっただろう。  それがまさか葉山のお母さんと再婚するなんて……縁の深さ、強さを感じた。 「瑞樹、いいニュースをありがとう。それで仕事は捗ったのか」 「はい、くまさんとお母さんは手伝ってくれたので、今日中に終わりました」 「よかったな! がんばったな」 「明日もうひと仕事してから帰りますね。宗吾さんも本当にお疲れ様です。 芽生くんも、よくがんばったね」  今日は、瑞樹の方が年上みたいだ。  たった1日にも満たない……離れた時間に、俺は瑞樹がとても恋しくなっていた。  電話を切った後、芽生を思いっきり抱きしめた。 「芽生、本当にごめんな。パパと仲直りしてくれるか」 「うん! パパぁ、だいすきだよ」 「ううっ、芽生は優しいんだな。ありがとう」   芽生を抱きしめると、陽だまりの匂いがした。  芽生、まだ、こんなに小さいのに……パパ、今日は本当に駄目だったな。  ごめんな。  俺、瑞樹がいないと、また今日みたいに進む道を間違えてしまいそうだ。  だから……瑞樹、ずっとずっと傍にいてくれよ‼  

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