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誓いの言葉 38

「新郎さまですか。本日はおめでとうございます」 「あ……ありがとうございます」  イングリッシュガーデン内で執り行われる結婚式だから、結婚式場としての設備は整っていない。そこを配慮して、オーナーがわざわざ軽井沢プリンセスホテルから着付けしてくれるスタッフを呼んでくれていたらしい。タキシードなど着たことがなく勝手が分からないので、有り難い。 「よ……よろちく、おねがいしましゅ」  いっくんも隣でぺこりと丁寧な挨拶をしている。まだ3歳なのに……こういう所にも菫さんの丁寧な子育てぶりが感じられる。自然と笑顔が生まれるよ。  オレはずっといい加減に生きて来たから、挨拶など、ろくに出来ない子供だった。いつもオレの隣で、兄さんがオレの代わりに丁寧に挨拶をしてくれたから、甘えていたんだ。  兄さんから何一つ学ぼうとせず……我を通して好き勝手やってきた。  だが……自分がしでかしたあの惨い事件をきっかけに、オレは生まれ変わろうと決心したんだ。兄さんがオレに教えてくれたことを思い出し、兄さんだったらどう考えるか、どう応対するかなと……相手に対して心を配ることを学んだ。教えから多くのことを学び、吸収して実行していこうと誓った。 「まぁ、なんてお行儀がいいお子さんなのかしら。可愛らしいですね」 「ありがとうございます。今日はよろしくお願いします」 「あら、純白のタキシードなんですね」  最初は黒い無難なタキシードを選んだが、いっくんの希望で白いタキシードに変更した。  あの時は受け入れていたのに……いざ前にすると急に不安になった。  こんなオレが……本当に純白の衣装を着ていいのか。過去に兄さんにしでかしたことが、走馬灯のように駆け抜け、後悔が募っていく。 「……やっぱり……今更ですが……黒に変えられませんか」  自分でも馬鹿なことを言っている自覚はある。 「え? どうされました? いきなり当日に……」  衣装スタッフの女性も、焦った様子でオロオロし出す。  そこに扉が開き、爽やかな風が吹き入って来た。  優しい花の香りを纏った貴公子のような兄さんだった。 「じゅーん、どうした?」 「に……兄さん」 「ん? 」  兄さんはタイトなブラックスーツ姿だった。それに淡い水色のベストとアスコットタイ。胸元のチーフも爽やかな水色で上品だった。しかもタイリングとカフスに見たこともない、緑色の宝石をつけている。 「兄さん! すごい正装だな」 「ありがとう。大切な弟の結婚式だから、つい気合いが入ってしまって……あの、変かな?」 はにかむような兄さん特有の笑顔が、どこまでも眩しかった。 「いや!」  オレは全力で否定した。 「カッコよくて、ハンサムで、キレイで可愛くて……最高だ‼」  つい熱弁してしまうと、兄さんは真っ赤になっていた。     「潤は白いタキシードなんだね。とても素敵だよ」 「兄さん、どうしよう。オレ……ちょっと気後れしてる。こんなの着ていいのかと不安になって……」  兄さんに甘えてしまった、縋ってしまった。  意気地なしだ……オレ……この後に及んで。 「じゅーん、兄さんに任せて」  じゅーんと呼ぶ、兄さんの優しい声が心地良い。  兄さんは鞄からスマホを取り出して、何か調べだした。 「なに?」 「あぁこれだ……以前、研修で学んだことなんだけどね……タキシードについて、少し話してもいい?」 「あぁ、頼む」    何でもいい、白いタキシードに袖を通す勇気が欲しい。   「白いタキシードはね、新しい始まりをあらわすシンボルと言われているんだ。だから……これまでの気持ちを切り替えて再スタートしようとする人にとってラッキーアイテムなんだよ」    何もかも見透かされているような不思議な心地だった。しかし少しも嫌な気持ちにはならない。むしろ有り難かった。 「心強いな……オレが、今欲しかった言葉だよ」  感極まって、声が滲む。  オレはこんなに簡単に泣く男ではなかったのに。 「じゅーん……もしも潤のこれまでの人生にね、何か……悔しさや失敗があるとしたら、それは今日という日の……再スタートのために必要なことだったのかもしれないよ。……潤にはもう過去を乗り越えて欲しい。僕の自慢の弟なんだから」 「あ……」  兄さんの寛大で寛容な言葉に、もう堪えきれずにポロポロと大粒の涙が溢れてしまった。すると、いっくんが背伸びして、オレにティッシュを差し出してくれた。 「パパぁ、ティッシュどーぞ」 「あ、ありがとうな。これは……悲しくて泣いているんじゃないんだ。兄さんの優しさに感激して……嬉しくて……泣いているんだよ」 「よかったぁ。いっくんね。いつもママがえーんえーんしてるとき、こうしてあげるの、だから……」  菫さんが――  いつも優しく朗らかな彼女が人知れず泣いた夜を思うと、ギュッと胸が切なくなった。 「いっくん、心配かけてごめんな」 「よかった。いっくん、ほっとしたよ。パパのおようふくね、いっくんといっしょのしろだからね、こわくないよ」 「あぁ……そうだな」  兄さんの瞳も、同じように潤んでいた。 「じゅーん、いっくんって本当に天使みたいだね」 「あぁ、地上の天使なんだ」 「うんうん、潤を導いてくれる天使なんだね」 「兄さん、ありがとう。すごく励まされた。思えば……いつもこうやって兄さんはオレを励ましてくれていたんだな」 「そ、そうかな? 僕も潤から沢山のものをもらっているよ」  兄さんが綺麗な顔を綻ばせてくれる。 「オレは何も……」 「じゅーん、僕の弟でいてくれてありがとう。今日は心からの祝福を兄としてさせて欲しい」 「兄さん……」 「これ、僕が作ったブートニアだよ。さぁ早く白いタキシードを着てみて」 「あ、あぁ」  もう恐れない。  もう怯まない。 「あの、お待たせしてすみません。宜しくお願いします」  部屋の隅で待機していた着付係の女性に頭を下げて、お願いした。  真っ白なタキシードに、蝶ネクタイとベストは菫さんとお揃いの薄いパープル色を身につけた。  「まぁ、背丈も肩幅もしっかりしているからよくお似合いですよ」 「そ、そうでしょうか」 「潤、ほら、兄さんの言った通りだね。よく似合うよ。ね、いっくん」 「パパ、かっこいいでしゅー!」    兄さんがオレに一歩近づいて、左胸にブートニアをつけてくれた。 「これは菫さんのブーケとお揃いだよ。大切な人とお揃いって、素敵だよね」  兄さんが自分の手首の緑色のカフスを見つめて微笑めば、そこは花園のようになる。ずっと見たかった笑顔を真っ直ぐに向けてもらえて、幸せだと思った。 「これで完璧だね。うん、ハンサムな南国の王子様の出来上がりだ!」 「パパ、カッコイイ!」  いっくんが嬉しそうに眩しそうに、オレを見上げてくれる。  この瞳を守る父となりたい。そしこの子を産んだ母を守る人でありたい。  今日から、このオレが父となり夫となる。  改めて思うと、身体が緊張に小刻みに震えてしまった。  そんな震えるオレの肩に、兄さんが静かに手をあててくれる。 「潤……どうか頑張りすぎないで、幸せの秘訣は……三人で歩み寄って仲良くだよ」  兄さんの深い言葉が、オレを大空に解き放つ――  

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