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実りの秋 5
「あっ……どうしよう」
「瑞樹、どうした?」
「僕、お母さんに頼み忘れてしまいました」
宗吾さんのご実家から数分歩いた所で、僕は大切な約束を忘れていたのを思い出し、立ち止まってしまった。
「何だ?」
「……管野と約束したんです。小森くんのマスコットをお母さんに作ってもらうって」
「なんだ。じゃあ、すぐに戻ろう」
「でも……今更、悪いです……それに僕、戻るのはちょっと……」
「んなことないよ。俺は忘れ物の常習犯だったんけどさ、最近『忘れ物』って、ちょっとした親への贈り物だと思うんだよ」
「……贈り物?」
「瑞樹はさ、芽生が忘れ物して戻ってくると、どう思う?」
どうと言われても……
「正直に言っていいぞ。だらしないと頭ごなしに怒るか」
「いいえ、どちらかと言えば、不謹慎かもしれませんが……少しだけ嬉しいかも」
そう答えると、宗吾さんに頭を撫でられた。
「よしよし、素直だな。子供を送り出した後って、ホッとするのと同時に少し寂しかったりするよな。だからたまに忘れモノを理由にふらっと戻って来てくれた時って、不思議と怒る気はしなくて、嬉しく感じてしまうんだよなぁ」
宗吾さんの考えって、いつも斜め上をいくというか、切り口が素敵だ!
「じゃあ……僕も今から戻っても?」
「あぁ、母さんも可愛い瑞樹や芽生の顔をまた見られたって、きっと喜ぶだろう」
「……宗吾さんを信じてみます」
いつもどんな時でも、僕の気持ちを引き上げてくれる宗吾さん。
やっぱり素敵だと、惚気たくなってしまうよ。
つい頬が緩むと、芽生くんが僕をじっと見て、ニコニコしていた。
「ふふふ」
「芽生、なんだか怪しい笑いだな」
「お兄ちゃんがね、デレデレさんになってる」
「ははは、瑞樹はパパ一筋だからなぁ」
「そ、宗吾さん、芽生くん……ってば」
宗吾さんの言った通り、お母さんは僕の申し出を大変喜んでくれ、小森くんの写真を見せると目を輝かせてくれた。
「また一つ手間暇掛けられることを見つけたわ。瑞樹、楽しみをありがとう。それにしてもキュートな小坊主くんね。彼がキャンプでご一緒した『あんこくん』なのね」
「あんこくん?」
「芽生が言っていたのよ。あんこのようせいがキャンプにいたって」
「あぁ、そうかもしれません」
「楽しく作らせてもらうわね。出来たら取りにいらっしゃい」
お母さんは、とても楽しそうに笑ってくれた。
こんな笑顔が見られるのなら、何度でも戻ってきたくなる。
僕の幸せはもう消えない。
戻るのは怖かったけれども……宗吾さんのお陰で意識が変わった。
そして変わらぬお母さんの笑顔に泣きそうになった。
その晩、僕はずっと心に抱えていた過去を、宗吾さんに話したくなった。
今日なら話せそうだ。
宗吾さんには話しておきたい。
「宗吾さんに……少し昔語りをしても?」
「どうした?」
「ずっと怖かったことが、今日、宗吾さんのおかげで克服できたんです」
「どうした?」
「両親と夏樹が亡くなった後の話をしても?」
「あぁ君が話したくなった時は、いつでも話してくれ」
宗吾さんが僕を優しく抱きしめてくれたので、僕はぽつりぽつりと語り出した。
……
僕は……あの日……家に戻るのが怖かった。
「瑞樹、今から自宅に戻るから、一番黒い洋服を着て来なさい」
「……は……い」
遠い親戚のおじさんとおばさんは、会ったこともない人だった。
真っ黒な洋服に、黒い靴を履いていた。
僕は二人の後をついて、病院からとぼとぼと自宅に向かった。
途中で膝がガクガクと震えたけれども、迷惑をかけないように踏ん張った。
「ここだな?」
「……はい」
家は車のように壊れてはいなかった。
何もかもそのままだった。
緑色の三角の屋根、白い壁、揺れる可愛い草花。
ただ、いつもお母さんがお洗濯を干していた場所には、何もなかった。
「あなた、遺品から見つけた家の鍵よ」
「あぁ……しかし参ったな。厄介なことになった」
「しっ、あの子が聞いているわ」
「さぁ開いたぞ、俺たちはここで待っているから、着替えたらすぐに戻って来るんだぞ」
「……はい」
事故の後、数日ぶりに戻って来た僕の家。
本当にお父さんもお母さんも夏樹も、もういないの?
やっぱり信じられないよ。
もう誰も僕を助けてくれないのは、理解している。
この何日間か、どんなに泣いても叫んでも誰も来てくれなかったから。
灯りの消えた家は、三人がいないだけで、何一つあの日の朝から変わっていなかった。
あの日出掛けるまで夏樹が描いていた絵が、床に落ちていた。
お母さんのエプロンは椅子にかかっていて……朝ごはんに飛ばしたシミがついていた。
お父さんがいつも座っていたソファのクッションは、まだ凹んだままだった。
ギュッと目を瞑ってリビングを通り越し、二階に駆け上がった。
黒い服、黒い服ってどこ?
早くしないと怒られてしまう。
無我夢中でタンスをひっくり返した。
その時、お母さんの言葉をふと思い出した。
「ねぇ、パパ。これ学芸会用に買ったけど、瑞樹にはやっぱり綺麗な明るい色が似合うわね」
「……まぁ一枚くらいフォーマルで着られそうなのが、あっていいんじゃないか」
「そうね、この先、何があるか分からないし」
何があるか分からないって……?
その言葉が、空き缶が転がるように……虚しく通り抜けていった。
何かって……こんなに、こんなに……怖いことだったの?
「うっ、ひっ……ううっ……」
僕は泣きじゃくりながら、黒いズボンと白いシャツとグレーのベストに着替えて、外に飛び出した。
……
「僕が連れて行かれたのは、両親との……永遠の別れの儀式でした」
「……そうか、そんなことがあったのか。よく話してくれたな。でもどうして急に?」
宗吾さんがゆっくり話しているうちに冷え切った手足を温めてくれた。
じわりと人肌を感じ、僕は安堵する。
「今日……お母さんが戻って来た僕をあんなに喜んで迎えて下さって、嬉しかったんです。実は函館に引き取られてから、うっかり忘れ物をして家に戻るのが極端に怖かったんです。この家族もいなくなってしまっていたら、どうしようって……だけど今日……忘れ物をして良かったと初めて思えました。だから悲しい思い出と塗り替えたくなったんです」
「瑞樹……そうだったのか。いくらでも俺に話してくれ。君の消し去れない寂しさや恐怖は、これから先もこんな風に吐き出してくれ」
宗吾さんが優しく口づけをしてくれる。
僕を、頼もしい身体で包んでくれる。
ふっと身体から力が抜けていく。
「瑞樹、今日は手は出さないよ。その代わり、俺に甘えてくれ。芽生が瑞樹に甘えるように、君は俺に甘えろ」
「はい。宗吾さん、ギュッとしてください」
いつもより数段甘えた声で、宗吾さんに抱きついた。
あの日の光景は、たまに僕を苦しめていた。
でも、もう……あの怖い夢は見ない。
宗吾さんがいるから。
宗吾さんの家族が、僕を愛してくれるから。
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