1219 / 1740
実りの秋 32
三人で帰宅すると、家の中がびっくりするほど荒れていた。
「ははっ、泥棒が入ったようにメチャクチャだな!」
生活感たっぷりの室内に、思わず笑みが漏れる。
「えぇ、どの部屋も混乱していますね」
「4時起きでまだ暗かったし、俺たち弁当に命懸けていたからなぁ」
芽生くんのパジャマはリビングの床に脱ぎ捨てられ、洗面所では歯磨きコップが床に落ち、床がまたびしょ濡れになっていた。
芽生くん、ひとりで起きたと張り切っていたけど、こういう所は小さい時のままだね。
可愛いなぁ。
成長はもちろん嬉しいが、まだまだしてあげられるのも嬉しいものだな。
「瑞樹ぃ~ 面白いものがあるぞ」
「なんですか」
宗吾さんが上機嫌で呼ぶので寝室を覗くと、脱ぎ散らかしたパジャマが抜け殻のようだった。
「まるで俺がいるみたいだぞ」
「本当ですね、芽生くんとそっくりですよ」
「そうかぁ、それより俺のパジャマの手元を見てくれよ」
「なんですか」
「俺って抜け殻になっても、君のパンツが好きみたいだ」
「‼‼‼」
なんでここに僕のパンツがあるのですかーっと突っ込みたくもなったが、もう笑うしかなかった。
「宗吾さん、これはわざとですね」
今日はパンツを脱いだ覚えはないし、脱がされた覚えもない。
「バレたか」
「くくっ、もう~ 僕の箪笥に鍵を掛けますよ」
「え? それは駄目だ」
「パパぁ~ また、わるいこしてるの?」
刀を片手に持った芽生くんが登場すると、宗吾さんが大袈裟にひれ伏した。
「ははぁ~ 芽生さま~ お許しください」
「くすっ、くすくす」
生活感のある部屋に戻り、こんな風に家族で肩を揺らし笑い合う。
今日は涙が出るほど、嬉しい。
もうそれだけで僕は幸せだ。
あの日を思えば、何でもない日常が愛おしいよ。
あの日はどんなに耳を澄ましても、僕の嗚咽以外聞こえなかったから。
あの日ポタポタと落とした涙は、もう消えたんだ。
「よし、じゃあ、おやつにするか」
「パパぁー おじさんからもらったお菓子食べてもいい?」
「あぁ、手を洗ってからな」
「うん!」
僕達は部屋の片付けを後回しに、おやつタイムにした。
憲吾さんの選んでくれたおやつは、大人が喜びそうな上品な物から子供の駄菓子まで様々だった。
「兄さん、きっとあれこれ考えて分からなくなったんだな。数打てば当たると思ったのか」
「これには、きっと僕達への労いも入っているんでしょうね」
「そうか……兄さんが俺たちのことも思って選んでくれたのか」
「そうだと思いますよ。宗吾さんのお父さんもされていたそうですね」
「あぁ、親父も鞄いっぱいのおやつをご褒美でくれたんだ。毎年それが密かな楽しみでさ……」
「いい思い出ですね」
宗吾さんの幼い頃の話、もっと聞きたいな。
今まで自分の過去に追われて余裕がなかったけれども。
「あれ? 芽生、寝ちゃったぞ」
「疲れていたんですね、少し寝かせてからお風呂にしましょうか」
「あぁ、じゃあ風呂を入れてくるよ」
「お願いします」
机の上につっぷして眠ってしまった芽生くんを、優しく抱き寄せてあげた。
「寝顔は赤ちゃんみたいだね」
芽生くんの小さな頃の写真も、もっと見せてもらいたいな。
こんな風に思えるのも、僕がようやく落ち着けたからなのかもしれない。
お母さんの子になれて嬉しかった――
ずっと伝えたかった言葉は、いつも飲み込んだままだった。
10歳で引き取ってもらった時、初めて「私の子になろう」と言ってもらった。高校でストーカー被害に遭った時に、お母さんは「うちの瑞樹に何をする気なの? この子は私の大事な息子なのよ!」と全力で守ってくれた。
社会人になって遭遇したあの事件。いち早く軽井沢に駆けつけて、泣きながら抱きしめてくれ「瑞樹……私の子……」と必死に僕を励ましてくれた。
いつも消えてしまいたいほどの悲しみに襲われた時、お母さんが僕を「私の子」と言ってくれたのに……僕はそれに感謝しながら心のどこかで昇華しきれない想いを抱えていた。
でもさっき駅で憑きものが落ちたみたいに「お母さんの子にしてくれてありがとう」と伝えられた。
物思いに耽っていると、宗吾さんがキッチンで珈琲を淹れていた。
「疲れただろう、今のうちに一服しよう」
「ありがとうございます。宗吾さんもお疲れさまです」
「俺たち、親として大奮闘したよな」
「そう思います」
微笑みながら珈琲を受け取ると、宗吾さんが僕の頬をそっと撫でてくれた。
「瑞樹、いい笑顔を浮かべていたな。頬が緩んでいたよ」
「宗吾さん、僕……さっきお母さんにようやく言えたんです。『僕をお母さんの子にしてくれてありがとう』と。ここまで……長くかかってしまいましたが」
「そうか、よかったな」
宗吾さんが僕の横に座って、キスをしてくれた。
甘いご褒美のようなキスを。
「んっ……宗吾さんと一緒にいると、僕……どんどん生まれ変われます」
「君は君の力でここまで辿り着いたんだ。そんな瑞樹が最高に愛おしいよ」
僕の全てを知って認めてくれる宗吾さんが、今日も大好きだ!
****
明日はいっくんの保育園の親子運動会。
保育園児の運動会は、子供が小さいので親の出番が多い。
普段共働きで忙しい親子が、仲良く交流出来る最大のイベントだ。
「パパぁ、あのね、ウインナーさんはこれね」
「え?」
いっくんが持ってきた絵を見てギョッとした。
その青い物体はなんだ?
「それは……?」
「ぺんぺんさん」
「あぁ、ペンギンか」
「そう! こんなのがいい」
「ううう、わかった」
「かわいいおかおがいいなぁ」
「はは、まかせておけ」
手先は器用な方だ。だがタコウインナーならマスターしたが、ペンギンなんて聞いてないぞ! なんて高度なリクエストなんだ!
「菫さん、ヘルプ!」
「くすっ、いっくんってば、パパなら出来るって過信すぎね」
「ペンギンなんてウインナーで作れるのか」
「ふふふ、私はもとパタンナーよ。切り込みなら座ったままでも出来るし、潤くんは焼くだけで大丈夫よ」
「助かるよ」
パジャマ姿のいっくんが、オレの膝によじのぼってくる。
オレはいっくんを軽々と抱き上げ、赤ちゃんのように横に揺らしてやる。
「いっくん赤ちゃん、そろそろ寝ないと明日起きられないぞ」
「いっくんね、パパとねんねしゅる」
「よし」
そのままいっくんを布団に寝かすと、オレの手を可愛く引っ張ってくれる。
「パパぁ……あのね」
「なんだ?」
「うんどうかい、ぜったいきてね」
少し心配そうな瞳が、いじらしい。
「もちろんだ。美味しいお弁当を山ほど作っていくよ」
「いっくんね……ずうっと、パパともいっしょにたべたかったの」
「あぁ、大丈夫だ。もうずっと一緒だからな」
「パパぁ……だいしゅき」
いっくんはお腹にいる時にお父さんを亡くし、ずっと父親の存在を知らずに菫さんと身を寄せ合って生きて来た。
「もう大丈夫だからな。沢山オレを頼ってくれよ。オレはいっくんが大好きだ」
「……潤くん、ありがとうね。いっくんをそこまで愛してくれて、私、幸せよ」
隣で話を聞いていた菫さんが、泣きそうな顔で笑っていた。
「お腹の子、大丈夫か」
「うん、つわりも少し落ち着いて来たし、この分なら明日は行けるわ」
「よかった。菫さんは何もしなくていいから、ただ見ているだけでいいから」
「ふふっお姫様になった気分よ。うん、任せるね。潤くんだから全部任せられるのよ」
任せてもらえる。
信頼してもらえる。
人としての喜びを、オレは今日も知る。
ともだちにシェアしよう!