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新春 Blanket of snow 19
買い置きしておいた小豆の缶詰に、お水を足して雪平鍋でコトコトと煮詰めると、すぐに甘い香りが漂って来た。
美味しそう! 即席でも、そこそこ美味しいものが出来るのよね。小豆からちゃんと煮たら、もっと美味しいのが出来るかも。でも、今の我が家で出来る範囲で背伸びしないのが、一番よね。
大切なのは家族が笑顔で過ごせる時間だから。
潤くんと出逢うまでは、私はずっと一人で子育てを奮闘していた。いっくんをちゃんと育てないと、あの人に申し訳ないという気持ちで一杯だった。
だから……いっくんのあどけなさにイライラしたり、いたずらを叱ってばかりで、余裕のない子育てをしてしまった。本当に駄目な母親だったわ。それなのに、いっくんはどんな時でも「ママ、ママ」と親しみを込めて呼んでくれたの。
純真な目で私を包み笑顔を届けてくれて、チュッとほっぺに淡雪みたいなキスもしてくれた。
その度にいっくんの優しい顔立ちに彼の面影を感じ、天国から頑張れと励まされている気がした。
でもね必死の努力も3年で限界が来てしまったの。あの時は何もかも投げ出したくなったわ。それは椎間板ヘルニアで緊急入院したのがきっかけだったの。
元々立ち仕事で腰痛持ちだったのと、いっくんの出産を経てじわじわと悪化させてしまったの。時折、痛いという言葉では足りない激痛を感じる症状があったけれども、いっくんを抱きしめる人は私しかいない。だから少しでも泣けばすぐに抱っこしてあげて、腰が痛むのなんて気にしていられなかった。
そんなことを繰り返したいたの。
あれは潤くんと出逢うひと月前だったわ。キッチンで吊り戸棚の乾物を取ろうと背伸びした途端、腰に激痛が走り動けなくなってしまったの。お鍋の火をなんとか止めた後、痛みで気絶しそうになったわ。いっくんがずっと「ママ、ママ……ママぁ」と私を必死に呼んでくれたので、なんとか最後の力を振り絞り、救急車を自分で呼んだの。
玄関の鍵を壊しチェーンを切って助けてもらったわ。
救急車に乗っている間、小さないっくんは救急隊員の方に抱きかかえられて、えーんえーんと泣いていた。
記憶に残る程の怖い思いをさせてしまった。
こんな時、パパがいてくれたら。
どうして、どうして私は一人なの? どうして……
目の前が真っ暗になった。
私、この先、もう生きていく自信がない。
入院が決まった段階でようやく両親が駆けつけてきてくれて、いっくんを預かってくれることになったけれども、いっくんは暗い顔で「ないちゃ……だめ、だめ」とずっと呟いていて、胸が潰れる思いだった。
退院にあたり抱っこは当分厳禁と言われ、途方に暮れてしまった。
いっくんを抱っこできないなんて。
この子には、今すぐ必要なことなのに。
私がいっくんのパパとなりママとなり、二人分背負っていくつもりだったのに。
いっくんの手を引いて街を彷徨った。
どうやったら、どうしたら……あそこに行けるのかを知りたくて。
「ママ、おうち……かえろ。いっくん、おうち……いきたい」
「行きたい」が「生きたい」と聞こえ、目が覚めたわ。
私、何を考えて……
あの日乗り越えたから、今があるのね。
いっくんの夢は、不思議な内容だった。
あの人が潤くんと私を巡り合わせてくれたのね。
ありがとう、ありがとう。
私の幸せを願ってくれてありがとう。
幸せになっていいのね。
潤くんといっくんと……この子と。
窓辺から元気に遊ぶ潤くんといっくんの様子を見ていると、お腹に懐かしい感覚を抱いた。
「あ……これって」
腸がのあたりがグルグル……
これって……胎動だわ。
初めて感じたわ。
「赤ちゃん、私たちの赤ちゃん、お空のパパに会ってから来てくれたのね。あなたのことは忘れない。でも私はこれでいいのよね。潤くんを愛していいのよね。いっくんとこの子と生きていっていいのよね」
(もちろんだ。僕は天国の大きな樹となって見守っているよ)
よかった。
ほっとしたら、眠くなって来ちゃった。
以前だったら、いっくんから目が離せなくて転た寝なんてする暇も余裕もなかったのに、今は違うのね。潤くんにお任せして、眠ってもいいのね。
横になると、また微かな胎動を感じた。
だからお腹に、そっと手をあててみる。
「私がママよ……あなたはママと潤くんの子よ。可愛くて優しいお兄ちゃんも待っているから元気に産まれてきてね」
そっと目を閉じると、そのまま、すぅっと眠ってしまった。
次に目が覚めると、ぽかぽかな部屋で毛布をかけてもらっていた。
「あ……寝ちゃったのね」
「すみれさん、起きたのか。お汁粉作ってくれてありがとう。一緒に食べよう。待っていたよ」
「ママ、おはよう!」
「あ、あのね……聞いて!」
「どうした?」
「お腹の赤ちゃんが動いたの」
「え! 本当か」
潤くんといっくんが嬉しそうに手をあててくれた。
「……動かないな」
「うーん」
「これから、もっともっと分かるようになるわ」
「そういうものなのか」
「ママ、いっくん、おにーたんになれるかなぁ」
「いい家族になれるわよ」
「ありがとう」
まるで、ここは、雪のかまくらみたい。
外は凍えるほど寒いのに、ここはとても暖かい。
****
お母さんが冷蔵庫から卵を取り出して、ボールにリズミカルに割り入れた。
その様子を見ていると、また昔のことを思い出した。
僕は両親に何かねだったのかな?
最後に何をねだったのかな?
僕は夏樹が生まれてから、お兄ちゃんになれたことが嬉しくて夢中だった。
時々ふと寂しくなるとお母さんが抱きしめてくれた。一緒に眠ってくれた。
「瑞樹もいらっしゃい」と甘えさせてくれた。
お父さんは外に連れて行ってくれた。駆けっこのコツも木登りもお父さん直伝だった。
そんな僕にも、いつか、ねだってみたいことがあったような。
お母さんと台所に立ってみたい。お父さんと日曜大工をしてみたい。
そんな些細なことだったのかも。
「瑞樹、どうしたの? もっとおねだりしてくれるの?」
「あ……あの、してもいいのですか」
「当たり前じゃない」
「じゃあ……」
「言ってご覧なさい」
「僕にも作り方を教えて下さい」
「まぁ、嬉しいわ。3人目にして漸くその言葉を聞けたわ。滝沢家の味を伝授するわね」
白い割烹着を着たお母さんが、少女のように嬉しそうに手を叩く。
「息子とこんな風に台所に立ってみたかったのよ。瑞樹、私の夢を叶えてくれてありがとう」
「僕が……お母さんの夢を?」
「えぇそうよ。あなたにしか出来ないことよ」
僕にしか出来ないこと?
お母さんは言葉の魔術師だ。
いつも僕に生きている意味を、夢と希望を届けてくれる。
「お母さんと一緒に作りたいな」
「えぇ、えぇ、そうしましょう!」
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