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心をこめて 17
「みずきちゃん、芽生坊、ぐっすり眠れたようで良かったな。起こさないで行くよ」
「菅野、本当にありがとう。来てくれて頼もしかったよ」
「へへっ、よせやい照れるよ」
菅野は朝から爽やかな笑顔を浮かべていた。
僕だけだったら、怖い夜だった。
もしも芽生くんの病状が夜中に急変したら、一人で冷静に対処できるか自信がなかったから。
「じゃ、俺は仕事に行ってくるよ。瑞樹ちゃんは今日は看病に徹すること! 会社のことは今日は気にするな。フォローしておくから大丈夫だ」
「菅野、本当にありがとう」
「困った時はお互い様だろ?」
「うん、心強かったよ」
「そう言ってもらえると来た甲斐があったよ。お互い頑張ろう!」
菅野を送り出して、僕はすぐにリーダーに連絡をした。
「リーダー、おはようございます。昨日はありがとうございました」
「おぅ、それで、どうだった?」
「それがインフルエンザは陰性だったのですが、溶連菌が陽性で……」
「あぁ、うちの息子も何度かやったよ。数日、熱が高く喉も痛いんだよな。可哀想に」
「はい……それで」
「今日は仕事は休んで、しっかり看病してやるといい」
リーダーの声が、力強く聞こえる。
僕は入社以来、ずっと同じリーダーの下で働かせてもらっている。あの事件の後も今日も……リーダーはいつもさらりと僕の不安を拭ってくれる人だ。
「ありがとうございます」
「そうだ、それでいい。君は……入社した頃は『すみません』が口癖だったが、その方がずっといいぞ」
「はい!」
「看病する方も大変だ。頑張れ!」
電話を切ると、芽生くんが起きてきた。
「おにいちゃん、おはよう」
「芽生くん、おはよう。どうかな? 少しは食べられそう」
「のどかわいたし、おなかも少しすいたよ」
「よかった、どれ?」
額に手をあてると、昨日ほどではないが、まだ熱っぽかった。
「まだお熱がありそうだね。今日も学校はお休みして、ゆっくりしようね。夜にはパパも帰って来るし」
「うん、そうする。あのね……いい夢をみたよ」
「どんな夢かな?」
「いっくんとボクがね、大きくなっても仲良く遊んでいる夢だったよ。いっしょにサッカーをしたよ」
それは僕の見た夢と通じるよ。
「お兄ちゃんも同じ夢を見たよ。いつかやってくる未来の夢を……」
「そうなの? うれしいな。それって、お兄ちゃんずっといっしょにいられるってことだもんね。よかったぁ」
芽生くん、ありがとう。
君の未来に、僕を見つけてくれて。
****
広島。
「滝沢さん、オープニングイベント、大成功でしたね! 来場者に焼き立てもみじ饅頭を配布するの、大好評でしたよ」
「ありがとう!」
「どうです? 慰労を兼ねて牡蠣料理でも食べに行きませんか」
「……お誘いは嬉しいが、小学生の息子が病気で寝込んでいるので、今日は早く帰るよ」
自分でも驚くほど早く、丁重に断っていた。
しかもプライベートな事情も曝け出して。
以前の俺だったら出来なかったことだ。
「それは大変ですね。お大事になさって下さい。そうだ! 食べられるか分かりませんが、イベントの残りの生もみじ饅頭です」
「ありがとう!」
「それから、新幹線口にある若鶏弁当もオススメですよ」
「買って帰るよ! いろいろ助かる」
広島支社のスタッフに事情を正直に話して、俺は新幹線に飛び乗った。
芽生の様子が心配だったし、瑞樹のことも心配だった。
何より三日間離れていた家族に、俺自身が早く会いたくなっていた。
広島から東京までの4時間が、とにかく長く感じた。
会いたい人がいると、気持ちが急いてしまう。
東京から電車を乗り継いで、我が家へ一目散に帰った。
「ただいま!」
****
午後になると……芽生くんはまだ熱はあるが昨日よりはだいぶ楽そうで、子供部屋にひとりで眠るのに飽きてしまったようだ。
「めいくん、午後はこっちで眠る?」
「え……いいの?」
「特別だよ。それに、お兄ちゃんもそうして欲しいな」
「いく!」
そこで、リビングに客布団を敷いてあげた。
本当は駄目だけれども、お布団からアニメを観たりもした。
僕はその間に、子供部屋の換気をし寝具を取り替え、洗濯物を干して……あれこれと家事をした。
僕からも芽生くんの様子が見えるので、安心できた。
僕も病気の時に、リビングで寝かしてもらったのを思い出した。
ひとりで子供部屋で眠るのが寂しくなってしまって震えていると、必ずお母さんが呼びに来てくれた。
……
「みーくんのお顔が見えないと寂しいから、こっちにお布団敷いたわ」
「えっ、いいの?」
「もちろんよ」
「ぼくも……おかあさんの顔がみえなくてさみしかったよ」
「じゃあ、いっしょね」
……
僕はお母さんが大好きだった。だから尚更、たった10歳で別れることになってしまい、悲しかったんだ。
どんなに寂しくても、もう二度とお母さんの顔を見られれないんだと落ち込み嘆き悲しんで、心の中で思い出すこともやめて、記憶を封じ込めていた。優しい思い出ばかりだったのに。
芽生くんを育てることで、一つ一つ丁寧に回収していきたいよ。
「……おにいちゃん」
「どうした?」
「なんだか、ここ、ほっとするね」
「うん、お兄ちゃんもほっとする」
「……ずっといっしょにいてね」
「もちろんだよ」
大丈夫、大丈夫。
僕たちには未来がある。
僕は芽生くんの成長を、ずっと見守っていくよ。
夕方、宗吾さんからの帰るコール。
「芽生くん、パパ、もう東京だって。もう少しで帰って来るよ」
「ほんと?」
芽生くんの横で洗濯物を畳んでいると、オレンジ色の光が差し込んできて、部屋が染まった。
「ミカンみたいな色だね」
「元気が出る色だね」
「はやく元気になりたいなぁ……学校にもいきたいし、おともだちとも遊びたいし……ごはんもいっぱいたべたいなぁ」
「もう少しだよ」
病気になると、当たり前の日常がありがたく感じるよね。分かるよ、僕も芽生くんがいつものようにランドセルを背負って元気に飛び出して行く姿が見たいから。
「でも……こんな風にゆっくりふたりで過ごすのは、久しぶりだったね」
「うん、うれしかった。お兄ちゃんずっとそばにいれくれて……すごくうれしかった」
静かで、優しい、温もりのある時間だった。
どこまでも、どこまでも……
やがて玄関で物音がする。
「パパだ!」
「うん! 帰ってきてくれたんだね」
玄関に向かうと、息を切らせた宗吾さんが立っていた。
「宗吾さん! お帰りなさい」
チャコールグレーのコートに、黒いマフラーを巻いた宗吾さんの姿を見たら、ほっとして涙ぐんでしまった。
「二人とも無事か」
「はい……」
「パパぁ」
「芽生! 大変だったな。瑞樹、ありがとう!」
僕たちはふたりして、どうやら宗吾さんがとても恋しかったようだ。
「よしよし。もう大丈夫だ!」
どこまでも広がる安心感。
やっぱり僕たちは三人で一つのチームなんだ。
そう強く、強く思った。
****
その晩……いっくんはオレとすみれの間で、すやすやと寝息を立てていた。
あどけない寝顔は、赤ちゃんの頃の面影が色濃く残っている。写真で見せてもらったいっくんの成長に思いを馳せていると、すみれがぽつりと呟いた。
「潤くん……まだ起きてる?」
「あぁ、今日は興奮して眠れない」
「私も……あのね……いっくん……あんなこと言ったの初めてだったの」
「……うまれてきてよかった?」
「うん、まだ4さいなのに、びっくりした」
「心の底からうれしかったんだな。いいお誕生日会だったからな」
すみれを見つめると、閉じた瞼に涙が浮かんでいた。
「いっくん、みんなに祝福されてよかった。潤くんのまわりは心の温かい人ばかりね……いっくんを一人で産んだ時は、周囲からは祝福より心配されてばかりだったの。本当に育てられるのか信じてもらえなかったの。私も子育てが初めてで、この子をちゃんと育てられるか分からなかったし……だからムキになったことも意地を張ったこともいっぱいあって……いっくんにとって伸び伸びと成長できる環境じゃなかったのよ。でもね、いっくんがいなかったら私は生きていられなかったわ。だからいっくんが生まれてきてくれて良かったという気持ちだけは懸命に伝えてきたの……だから……嬉しかったの」
すみれの独白に、静かに耳を傾けた。
昔は誰かの話を聞くのが苦手だった。
だが今は相手の言葉を聞くのが好きだ。
相手を理解したいし、支えてやりたいから。
「すみれの気持ちは、全部伝わっていたんだな。いっくんがこんなに愛らしく成長し、うまれてきてよかったと言ってくれたのは、全部、すみれが伝えてきたものだ」
「潤くん……これからはふたりでいっくんの成長を見守れるのが嬉しいわ。いっくんの4歳の誕生日は、私にとっても最高の1日だったわ」
この先、家族が増えても、今日という日は記憶に色濃く残るだろう。
4歳の誕生日。
それはいっくんにとっても、心の故郷になるだろう。
いっくん、改めて伝えるよ。
君はオレの息子……ずっとずっとパパの子だよ。
誕生日おめでとう!
来年も再来年も……ずっと、いっしょだ。
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