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心をこめて 30

 今日は、昨日にもまして別れ難かった。 「いやだ! まだ帰らないで、ここにいて」 「ゴメン、もう時間なんだ」  時計を見ると、すでに20時を過ぎていた。  僕も宗吾さんも離れたくない気持ちで一杯だが、いつまでも病室にいるわけにはいかない。  そこに巡回の看護師さんがやってきた。 「あの、そろそろいいですか。他のお子さんの手前もありますので」 「……そうですよね、今、出ます」 「パパ、お兄ちゃん、いかないで」  芽生くんが点滴をしていない手を伸ばしてくる。  細い腕を必死に……  辛い……辛い、辛いよ。  芽生くんがこんなに助けを求めているのに、去らないといけないなんて。  丈さんがその手をそっと引き離す。 「芽生くん……私がもう少し付き添おう」 「丈さん、ありがとうございます」 「いや、こんなことしか出来なくてすまない。だがこんなに辛い夜は、今晩が最後だ。明日からは笑顔が増えていく。そう信じて……今日は耐えてくれ」 「はい……」  信じよう!  信じたい!  『明けない夜はない』  心強い言葉をくれた人のことを。  丈さんと洋さんにも、きっと絶望に打ちひしがれ泣いた夜、永い別れの夜があったのだろう。 「芽生くん、明日も絶対に来るよ」 「芽生、パパと瑞樹がついているからな」 「ううっ、パパぁー お兄ちゃん、ぐすっ」  耳を澄ますと、他の病室からも子供の泣き声が響いていた。  啜り泣く声、泣きわめく声。  僕たちだけではない。  子供を置いていかないといけないのは……  廊下に出ると、空のベビーカーを押したお母さんが目を真っ赤にして歩いてきた。旦那さんが、その場に崩れ落ちそうな奥さんを支えていた。  いつもの日常がどうか、どうか……皆にも戻ってきますように。  みんなの病気が治りますように。  そう祈らずにはいられなかった。 「瑞樹、帰ろう」 「はい」 「流石に疲れたな。夕飯、コンビニでいいか」 「そうですね。今から作る気力はないです」  帰宅したら家事が待っている。今朝いつもよりずっと早く家を出たので、何もかもそのままだ。だから、とても料理までは無理だ。  とにかく疲れた。  こんな調子で、僕たちは乗り切れるのか。  芽生くんに元気を与えることが出来るのか。  沈黙したまま病院を出ると「瑞樹!」と呼びかけられた。 「あ……お母さん、ホテルに行ったはずじゃ……どうして?」 「帰ろうとしたんだけど、あなたたちに提案があって」 「え?」 「明日も明後日も二人は仕事の後、芽生くんの病院でこの時間まで毎晩過ごすのよね?」 「そのつもりです」 「あのね、私たちを宗吾さんのマンションに芽生くんの入院の間だけ居候させてくれないかしら? お邪魔はしないわ。ただ疲労困憊のあなた達に代わって家事をしてあげたくて」 「そんなの、悪いよ」  これ以上、甘えては駄目だ。  お母さんは、僕だけのお母さんじゃない。  僕にはそこまでしてもらう資格はない。  宗吾さんも気を遣うだろうし。    上手く答えられずに躊躇していると、宗吾さんが返事をしてくれた。 「いいんですか! ホテル住まいなんて味気ないですよね。俺も気になっていたんです。あの、俺の家でよかったら是非! 正直仕事もお互い繁忙期で、家事をしてもらえたら、すごく助かります」 「宗吾さん、本当にいいんですか」 「当たり前だろ! 君のご両親は、もう俺の両親だと思ってる」  その言葉にドキッとした。月影寺で指輪交換会をし休日や旅行では指輪をつける仲だが、そんな風に言ってもらえるのは、まるで結婚したみたいでドキドキした。こんな時だが、宗吾さんがそこまで考えていてくれるのがひしひしと伝わって嬉しかった。 「宗吾くん、君はいい男だな」 「お父さんとお母さんには、俺のスタンスをきちんと伝えておきたかったんです。瑞樹もすっかり芽生の親のひとりですし」 「宗吾さん……」 「みーくん、宗吾くんの言葉、うれしいな。困った時は助け合おうじゃないか! 物事はシンプルが一番だぞ」    くまさんが、僕の頭を大きな手で優しく撫でてくれた。  …… 「みーくん、いい子だな」 「みーくん、えらいな」 「みーくん、よしよし」 ……    大きな手、あたたかい手、大好きなくまさんだ。  小さな頃のように、素直に甘えてもいいの? 「くまさん、どうか手伝ってください」 「よしよし、いい子だ。今日は石狩鍋にしよう! もう具材は買って来た」 「いいですね。芯から温まります」 「看病する側が倒れては、元も子もないからな」 「ですね!」  宗吾さんも調子を取り戻して来た。  場が明るくなれば、身体に力も湧いてくる。 「瑞樹、行くぞ」 「あ、はい」    僕はもう一度だけ、芽生くんの病室を見上げた。  芽生くん、きっと明日にはもっとよくなっているよ。  そうしたら、楽しくおしゃべりしよう!  凍てつく冬空にはチカチカと星が瞬いていた。 「今日は星がよく見えますね」 「大樹さんたちも応援しているのさ!」 **** 「芽生くん、耳を澄ましてごらん」 「え?」  じょう先生の言うとおりにしたら、エーンエーンって、廊下から泣き声が沢山聞こえたよ。 「なんだか、涙の合唱みたいだね」 「みんなさみしくて泣いているんだ」 「そっか……さみしいの、ボクだけじゃないんだね」 「言い換えれば、みんな別れがさみしくて泣いてしまうほど、好きな人がいるということだ」 「うん、わかるよ。ボクもパパとお兄ちゃんだいすきだから」 「離れていても、ちゃんと愛情でつながっているんだよ」 じょう先生とのおしゃべりは少しむずかしいけど、ボク……すこし大人になったみたい。 「おたがいに? ってこと?」 「そうだよ。芽生くん、君は愛し愛されている幸せな子供だ」 「ボク……お兄ちゃんとあってからね、毎日楽しいし、うれしいの」 「それを人は『幸せ』と呼ぶのだよ。病気のことだが、経過が良いから明日には点滴も取れる。だからもうひと頑張りだ」 「……うん、もうひとがんばりだね」 「そうだ、もうすぐ楽になるぞ」  じょう先生の言葉に、涙がとまったよ。 「じょう先生、あそこにいる、くまちゃんとうさちゃんを取ってください」 「あぁ、これか、子供はぬいぐるみが好きなんだな」 「うん、ほっとするの。だっこすると、さみしさをすいとってくれるの。せんせいのおうちにもいる?」 「……ぬいぐるみはいないが……猫はいる」 「ねこちゃん!」 「また遊びにおいで」 「うん!」 「早く、元気にならないとな」 「元気になる!」 「さぁもう目を閉じて……」  じょう先生、さいしょ、ちょっとこわそうだったけど、とってもやさしくて、ますます好きになっちゃった。 「お休みいい夢を……」 「おやすみなさい」  ボクのゆめはね、とってもしあわせなゆめだったよ。  おにいちゃんに、うーんとあまえちゃった。  うさちゃんもくまちゃんも、みんなお兄ちゃんがダイスキ!  そうしたらね、パパがはいるところがないって、おおさわぎだったよ。  また、みんなでワイワイしようね!  

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