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心をこめて 31

「さぁ、みーくん、沢山食べろ」    くまさんが作ってくれた石狩鍋は、まろやかで懐かしい故郷の味がした。  身体が疲れてヘトヘトだった。  心も疲れてヘトヘトだった。  疲れた心身に、じわりと染み渡っていく愛情の籠った手料理だった。 「あ……美味しい」 「良かった。沢山食べて身体を暖めるといい」 「うん」 「よしよし、素直だな。宗吾くん、お代わりはどうだ?」 「うまいっすね! 是非いただきます!」  ようやく温かい食事にありつけた気がする。  怒濤の日々だった。 「ゆっくり食べろ」 「うん」  顔を上げると、白い湯気の向こうにお父さんとお母さんの笑顔が見えた。  僕はずっと食卓には出来たてのご飯が並び、湯気が立ち上がるのが当たり前だと思っていた。  その当たり前がけっして当たり前ではないことを、一番よく知っていたくせに……どうやら最近の僕は幸せに慣れてしまっていたようだ。  幸せボケして、日々の感謝の心を忘れていた。  いつもなら食卓にいる芽生くんがいない。  それが寂しくて寂しくて。 「みーくん、そう難しい顔ばかりするな。いいか、当たり前のことは、当たり前だから、意識したら当たり前じゃなくなるんだぞ?」 「あ、どうして……僕の考えていることを?」  脳内を覗かれたようで、恥ずかしくなった。 「人は素直になって、やってくる毎日を丁寧に過ごせばいいんだ。まぁ17年間も冬眠していた俺が言える立場ではないが、今はそう思っている。なっ、さっちゃん!」 「えぇ、私もよ。毎日を大切に過ごしているわ」  お母さんが僕の手を握ってくれる。 「瑞樹、いい? あなたは何もかも一人で背負わないの。自分を責めないの。あなたは昔から自分に厳しいけれども、今は宗吾さんという最高に頼もしい相手がいてくれるのだから、頼って甘えて……二人でシェアしなさい」 「うん……うん」 「それから、今日はもう横になった方がいいわ。目にクマが出来ているわよ」 「あ……うん」    その晩は後片付けもせずに、早めに横にならせてもらった。  宗吾さんは、もう少しくまさんと喋っているようだ。  宗吾さんが僕のお父さんとお母さんと仲良くしてくれる光景を、目を細めて見つめた。とても嬉しい光景だから。    思えば宗吾さんの出張中に芽生くんが熱を出したので一人で看病し、宗吾さんが帰って来てくれて安堵したのも束の間、真夜中に病院に行ったので、休む暇がなかった。  ベッドに横になると、ふと潤の声が聞きたくなった。  昔は潤と……どう向き合えば分からずに怯え、逃げてばかりだった。  こんな風に、自分から潤に歩み寄る日が来るとは思わなかった。 「もしもし……」 「兄さん、どうしたんだ?」 「ん……声が聞きたくなって」 「……何かあったのか」 「え……どうして?」 「声が沈んでいるから」 「鋭いね」 「……どうした?」  電話の向こうの弟の声が心地良い。  心配してもられるのが嬉しかった。  昔は強がって、周りの人に「可哀想に、大丈夫に、お気の毒に」と言われる度に、どんどん自分を隠すようになったが、今は違う。 「実は、芽生くんが入院してしまったんだ」 「え……」  潤が絶句してしまった。   「えっと……川崎病といって、乳幼児に多い病気で……でも丈先生の機転で早く対応出来たし、治療もしているから」 「そうだったのか。兄さん……辛かったな」 「うん……辛かったよ」 「芽生坊も辛いな」 「うん……大人だって入院は辛い。子供はもっと不安だよ」 「兄さんの子だもんなぁ、代わってやりたくなっただろう」 「あ……僕の気持ち、どうして?」 「分かるよ。オレもいっくんの親だから」  潤は、もうすっかり親としての心構えが出来ているんだね。 「川崎病って高熱が出て目が赤くなったり、手足が赤くなったりするんだよな」 「え? 潤は知って?」 「あぁ、すみれに育児書を借りて……それに載っていたんだ」 「うん、そうなんだ。芽生くんの目、見たこともないほど真っ赤になって……変だなと思って……潤も気をつけて」 「あぁ、いっくん……まだあまり大きな病気はしたことないが、気をつけて見守るよ」  お互い血の繋がらない子供を愛し、慈しみ、実の家族となんら変わらない気持ちで接している。 「潤、僕たちは似ているね」 「あぁ、兄さん、オレにも話してくれてありがとう」 「知らせたかったんだよ」 「信頼してもらえて、嬉しかった」 ****  翌日、お母さんが早起きして起こしに来てくれた。 「宗吾さん、瑞樹、朝よ」 「えっ!」  僕は宗吾さんにいつの間にか抱きしめられて眠っていたので、ギョッとして飛び起きたら、宗吾さんの頭とぶつかって、ゴチンと派手な音と立ててしまった。 「まぁ、瑞樹ったら今更何を照れているの?」 「お母さん~」  あれ? 僕とお母さん、こんなフランクな関係だった? 青い車の想くんとお母さんみたいになれて、嬉しいな。 「瑞樹、お母さんね、勇大さんと暮らすようになって、心にゆとりが出来たみたいなの」 「お母さんも幸せそうでよかった」 「あなたとこんな話をする日がくるなんてね」  お母さんは花屋で鍛えているので早起きは、大の得意だ。  キッチンからいい匂いがするので覗いてみると…… 「え? 朝からドーナツ揚げたの?」 「ずっと作ってあげたくて、ウズウズしていたのよ」  キッチンにはくまさんが立っていて、ゴリゴリと手元から音がする。 「みーくん、宗吾さん、おはよう。今、豆を挽いているから待っていてくれ」 「え? ミルなんてあった?」 「持参した」  宗吾さんと顔を見合わせて笑った。  久しぶりに心から微笑めた。 「瑞樹、俺たち、魔法にかかっているみたいだな。朝から挽き立てのコーヒーとドーナツだなんて。しかしドーナツの型なんてあったか」 「これは私の特製レシピで型抜きはいらないのよ。その代わりいびつよ~」  手作り感満載の、ふっくら美味しそうなシュガードーナツに、お腹がグゥと鳴った。 「瑞樹、食欲出て来たみたいね」 「う……恥ずかしいよ」 「ふふ、いいじゃない」 「あ、お母さん、これ残ったら会社に持っていってもいい?」 「お友達にあげるの?」 「そうなんだ。僕の代わりに残業がんばってくれているから」 「優しい子ね」  今日は宗吾さんのお母さんが病院に行くので、大沼のお母さんとくまさんは、家を掃除してくれるそうだ。  芽生くんの布団を干してもらえるのが、特にありがたい。  退院はまだだと思うが、いつ戻ってきてもいいように、清潔にしておいてあげたい。 「これ、病院に持っていくバスタオルとパジャマよ。勝手に用意しちゃったけど……」 「助かるよ」 ****  葉山が心配で俺もいつもより早く出社した。  部署に入ると、葉山が溌剌とした表情でテキパキと仕事をこなしていた。  おっ! 昨日よりずっといい顔をしているな。 「おはよう!」 「あ、菅野おはよう、昨日はありがとう」 「あぁ、俺もすぐに帰ったから気にするな。芽生坊……どうだ? 熱下がったのか」  葉山は少しだけ寂しく微笑み、首を横に振った。 「だけどね、いい方向に向かっている気がするんだ。いい風が吹き出したから」 「……そうだな『止まない雨はない』って言うしな。芽生坊も昨日よりも元気になっているさ」 「うん! あ、そうだ、菅野これ」  瑞樹ちゃんがいきなりドーナツを差し出したので驚いた。 「うまそうだな! 手作り?」 「実家の母のね。これは菅野の分だよ」 「うまそー! あんドーナツもいいが、シュガーもいいな」  早速頬張ると、愛情がいっぱい詰まっていた。 「瑞樹ちゃん、みんなに愛されてんなー」 「え、そ、そうかな」  恥ずかしがる顔が、一段と可愛い!  葉山の幸せそうな笑顔に、元気をもらった。 ****  定時で仕事をあがり、病院に向かって走った。  早く、早く……芽生くんに会いたくて!  手を消毒して病室に飛び込むと、芽生くんはベッドに上体を起こして、宗吾さんのお母さんと楽しそうにお喋りをしていた。  そして、昨日よりずっと元気な声、明るい声で…… 「お兄ちゃん!」  僕をいつものように呼んでくれた。  細い腕には、もう点滴の針は刺さっていなかった。

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