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心をこめて 44
「今日、いきなり早退? そんなこと急に言われてもなぁ」
「やるべきことは終わらせます。8歳の息子が2週間以上付き添いなしで入院治療して、ようやく今日退院します! だから今日だけは、明るい時間に父である俺が迎えに行ってやりたいのです」
ギリギリに出社してきた上司の前で、俺は直談判していた。
芽生の退院、今日だけは自分で行きたかった。
瑞樹と芽生と俺。
家族全員で、家に戻りたかった。
「……滝沢、お前、随分変わったんだな。数年前までは奥さんに子育ての一切を任せて、ゴルフに接待にと明け暮れていたのに」
この部署に来て随分経つ。直属の上司には、俺が浮かれ騒いでいる時も、離婚してボロボロになった時も、全て見られている。
その過去は確かに存在した。
だが、もう過去だ。
そして、今は今だ!
今は過去の自分を恥じている場合ではない。
今の俺を見て欲しい。
「どうか、お願いします」
「よし、分かった。その代わり、これを持って行け」
「え?」
上司から白い封筒を渡されたが、中身を想像出来ずに怪訝な顔をしてしまった。
「息子さんの退院お祝いだよ」
「えっ……そんな」
「どうだ? 気に入ってもらえそうか」
「見させていただきます」
封筒のは『えのしまの水族館の入場チケット』が何枚も入っていた。
こんなに沢山? しかも今話題のチョコレートアザラシと触れ合える特別チケットだ。
「いいんですか」
「これは滝沢が携わった仕事だろう」
「でも、俺たちの分以外に、こんなに?」
「実はモニターをしてくれそうな人に配って欲しい。若い父と小さな子供。男同。あとは50代の夫婦など、幅広く、いろんなパターンがいいな」
「あ、ありがとうございます」
「自分が企画した内容が、各世代にどんな反応を受けるか、その目で確かめて来い。仕事も兼ねてだから平日行ってきていいぞ」
ぶっきらぼうだが、情の深い上司だ。
平日の休みまで、許可してくれるなんて。
「その……入院した時は悪かったな。どうしても行かせてやれなくて」
「いえ、あの日は出張報告会があったので致し方なかったです」
「滝沢は毎日……早く来て仕事をしては、夜の面会時間に間に合うように駅まで走っていたな」
「見ていたのですか」
「あぁ、二週間、1日もダレることなく仕事に集中してすごかった。気迫を感じたぞ。水族館では家族水入らずの時間を過ごして来い。バレンタインだし家族サービスになるだろう」
「あ、ありがとうございます」
上司には離婚したことまでは話したが、瑞樹のことは伏せている。
なのに、まるで俺の横に大切な人が見えているかのように、労ってくれる。
「君の……パートナーも頑張ったんだな」
「あ……はい」
「家族を大事にしろよ」
「ありがとうございます」
芽生の病院に行く道すがら、白い封筒をもう一度確かめた。
これはお世話になった人に贈ろう。
「芽生、待たせたな」
「パパぁ~!」
芽生は既にパジャマを脱いで、見慣れぬ服を着ていた。瑞樹が着替えさせてくれたようだ。
「芽生、その服、いい色だな」
「これね、大沼のおじいちゃんとおばあちゃんがデパートで買ってくれたんだ」
「芽生くん、とても似合っているよ」
「えへへ」
暖かそうな深みのあるオレンジ色のセーターに、モカブラウンのズボン。
小学生の男の子らしい出で立ちに、目を細めてしまう。
「やっぱり芽生には、明るい暖色がよく似合うな」
思い返せば、玲子の好みは極端だった。
白と黒のモノトーンか、ルージュの赤。
小さな芽生にもそのような服ばかり着せるので、俺は正直戸惑っていた。
芽生の表情も起伏がなくなってしまう気がして。
だがあの頃の俺は、一緒になって格好つけて、いい気になって、それがハイセンスだと思う節もあった。
もう遠い昔の話だ。
今は真逆の世界にいる。
香水や化粧品のキツい匂いは消え、優しい花の香りが広がる部屋になった。
ナチュラルで自然の恵みの色を好む瑞樹と芽生、そして俺。
玲子は観葉植物は虫が付くから大っ嫌いで、造花に凝っていた。
1年中、咲き誇る花に匂いのない枯れない花に、むせそうだった。
今はベランダに所狭しと並ぶプランターを瑞樹と芽生が丹精込めて手入れし、家の花瓶には、季節の花々がいつも綺麗に飾られている。店の売れ残りを瑞樹が持ち帰り、丁寧に処理して、水を吸わせている。
彼の手は魔法の手。
植物を生き返らせて、命の限り咲くことを導く手。
俺も瑞樹に支えられ、導かれ、生きている。
生き生きとした小さな幸せを見つけることが、大好きな人間になった。
「パパ、ボク、こういう色、だーいすき! これはオレンジのガーベラ色だよ」
「花に例えるなんて、流石瑞樹の子だな」
「あのね。お兄ちゃんがタイインのお祝いをくれたんだよ」
芽生が満面の笑みで見せてくれたのは、真新しい図鑑だった。
「あの……これは自社製品です。『こどものための花ずかん』という本を最近刊行したので……あ、あの……それで……」
瑞樹が恥ずかしそうにしている。
「もしかして、君が撮った写真も掲載されているのか」
「あ、実はそうなんです。何枚か採用していただいたんです」
「どれだ?」
「いろいろあるのですが、見て頂きたいのは……ここと、ここ……」
シロツメクサと菫か!
「最高だな」
「とても嬉しいです。僕もここは外せないなって、頑張りました」
控えめな瑞樹が、自分から掴み取りたいことが出来たのが、嬉しかった。
「芽生、俺からはこれだ」
「なあに?」
「水族館の招待券だ。2月14日の日付限定だぞ。家族で行こう!」
「わぁ~ ボク、大好きだよ! 行きたいよ!」
「実は、何枚かあるんだ。潤くんといっくんも誘ってみるか」
「いいの?」
「あぁ、イベントのマーケティングさ!」
「たのしみだな」
「さぁ、そろそろ帰ろう」
「うん! やっと帰れるんだね」
芽生の素直な言葉に、俺と瑞樹も嬉しくなる。
「あぁ、芽生、お家に戻ろう」
「うん、パパとお兄ちゃんと一緒にもどれるの、うれしいよ」
当面は血液をサラサラにする薬を飲まないといけないが、すっかり健康そうな顔色、足取りになっているのに、改めて感謝した。
「先生、かんごしさん、ありがとうございました!」
「芽生くん、頑張ったね。元気でね」
「はい! がんばります!」
明るい芽生の笑顔に、ナースステーションの皆が笑顔で手を振ってくれた。
エレベーターが閉まるまで、芽生はニコニコ笑顔だった。
ところが、閉まった途端、瑞樹の足下にギュッとしがみついた。
「お兄ちゃん……ボク……」
「どうしたの? 芽生くん」
瑞樹はまるでそうなるのが分かっていたかのように、ふんわりと優しく芽生を抱きしめてくれた。
「やっと……やっと……おうちに帰れるんだね……うそじゃないよね? ゆめじゃないよね?」
「本当だよ。一緒に帰るために、お兄ちゃんたちが迎えにきたんだよ。もうずっと一緒だよ」
「よかった、ぐすっ、よかったぁ……本当なんだね」
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