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心をこめて 52
「今日はこれで上がるので、後はよろしく頼む」
「滝沢さんが定時退社なんて、珍しいです」
「ちょっとお祝いごとがあってな」
「それはおめでとうございます」
「うむ、ありがとう」
今日は芽生の退院祝いを直接祝えないが、その分家族の時間を大事にしたいと思った。
宗吾とは年が離れているのと持って生まれた気質が違い過ぎるのを理由に、長い間打ち解けられなかった。そんな弟とやりなおすきっかけを与えてくれた甥っ子という存在が愛おしい。
そしてその甥っ子を心から愛してくれる瑞樹。
君のことも大切だ。
私のもう一人の大切な弟だ。
宗吾を支え励ましてくれて、幸せにしてくれてありがとう。
自宅に戻った芽生は今頃、ホームベーカリーを開けている頃か。
喜んでくれるといいな。
おもしろいマシーンだよな。
粉がパンに変身するなんて魔法みたいだ。
童心に戻れば、世界には好奇心の芽だらけだ。
甥っ子の存在は、それを私に教えてくれる。
「ただいま」
「パパ、パパ、パパぁ」
「彩芽!」
彩芽がトコトコ玄関までやってきたので抱き上げてやれば、鼻を掠める子供らしい匂いに心が和む。
「お帰りなさい、憲吾さん」
「ただいま、美智」
「今日は芽生くんの所に寄ってくるのかと思ったわ」
「いや、それはまた改めてにしたよ。今度一緒に行こう」
「そうね、まずは家族水入らずね。私も会いたいから連れて行ってね」
「もちろんだ。母さんも一緒にみんなで行こう」
美智、いつも私の気持ちを読み取ってくれてありがとう。心が離れてしまった時期もあったが、ずっと私を支えてくれた大切な妻に感謝している。
健康で仕事が出来て、家族が出迎えてくれる毎日。
今の私はそんな日常が愛おしい。
「そうそう、何を買ったの?」
「うん?」
「夕方、家電量販店から大きな箱が届いたのよ。差出人は憲吾さんだったから」
そこで思い出した。芽生にホームベーカリーを手配した後、「もう一台欲しい」と言ったことを。
「もう届いたのか」
「だから、何?」
「魔法の箱だ」
「え!」
美智が目を丸くしている。
それもそうだ。
私の口から『魔法』なんて発したことはないからな。
「一緒に開けてみよう」
「えぇ」
中から出てきたホームベーカリーに、美智は目を輝かせた。
「これ、ずっと欲しかったの、若い頃からずっと……」
「ん? そうだったのか。じゃあ言えば良かったじゃないか、買ってやったのに」
「……言ったわよ」
「そ、そうだったか」
「そんなのすぐ飽きるってバッサリ切り捨てたわ」
「ご、ごめんな。やってもみないことを決めつけるのは悪い癖だ」
そんなことあったか。
記憶にはなかった。
それくらい俺は、家庭に無関心だったということか。
「あ! これイーストが自動投入の上位機種だわ!」
美智の機嫌が良くなって安堵した。
「彩芽がいるから、一番手間のかからないものを選んでもらったよ。実は芽生の退院祝いにも同じ物を送ったんだ」
「わぁ、宗吾さんのお家にも? 我が家とお揃いね」
お揃いか。
宗吾とお揃いなんてしたことがないので照れ臭い。
「美智、これどうやってやるんだ? タイマーをセットすれば朝焼き立てパンが食べられるそうだが」
「ちょっと待ってね」
二人でワクワク説明書を見ていると、母さんがやってきた。
「あらあら、二人で仲良く何をしているの?」
「母さん! ドライイーストはありますか」
「まぁ、驚いた! 憲吾の口からドライイーストなんて言葉が出るなんて」
「強力粉とドライイーストが絶対必要なんですよ」
「ないわよ」
「今すぐ買って来ます!」
朝は家電量販店、夜はスーパー。
こんな日常感溢れる場所にバンバン出現する自分が、可愛いと思った。
今度芽生とあったら、パン作りの話も出来そうだ。
****
「いっくん、芽生坊、今日退院したそうだ。よかったな」
「たいいんって?」
「病院から出て、家に戻れたってことさ」
「え! しょうなの? じゃあ、あえる? もうあえるよねっ」
兄さんからの朗報を伝えると、いっくんはまた宝箱を取りだして保育園バッグに詰めこんだ。
わわ! あの時と同じパターンだ。
「これであえましゅね。パパ! いこうよ!」
いっくんが満面の笑みで、俺の手を引っ張る。
「待て待て!」
「どちて? だってびょういんだからだめだったんでしょ? おうちにもどったらあえるっていったよぉ」
「あー そうだったよな。参ったな」
まずい! いっくんにどう伝えたらいいのか分からない。
困っていると、菫さんがアドバイスしてくれた。
「いっくん、ママとお話しようか」
「うん!」
「あのね、芽生くんは長いこと入院していたから疲れちゃって、すぐにはあそべないの。それにずっとひとりだったから、まずはおうちでパパと瑞樹くんに甘えたいかなって思うんだけど……いっくんはどう思う?」
4歳の子供相手に難しい事を言うんだなと思ったが、いっくんは黒目がちで少し垂れ目の可愛い顔で、じっと考え出した。
「あ、あのね、もしもいっくんがびょうきになったら、さみしいよ。はやくパパとママのいるおうちにもどりたいっておもうよ」
「うんうん、そうだよね。やっともどってきたら、どんなふうにすごしたいかな?」
「えっとね、パパにだっこしてもらって、ママになでなでしてもらって」
「それから?」
「またパパにだっこしてもらって、パパとおふろはいって、ママのごはんたべて、パパとママのおそばからはなれたくないよぅ」
「うんうん、今の芽生くんはきっとそんな感じだと思うの。だからもう少し今はちょっとだけ待ってあげようね。もう少し元気になったらパパと遊びにいってきていいのよ」
「うん! いっくんね、ママのおはなし、よーくわかったよ。あのね、たのしみはとっておくね」
健気ないっくん。
きっといつもこうやって菫さんと話し合って、母子で折り合いをつけていたのだろう。
いっくんの素直で優しい性格と菫さんの聡明さ。
どちらも愛おしい。
大切にしてあげたい想いだ。
「いっくん、えらいな。芽生坊が思いっきり遊べるようになったら、パパと東京に遊びに行こう!」
「パパととうきょう? うん! いく! いくよぅ!」
****
明け方、パンの焼ける美味しそうな香りが寝室まで漂ってきた。
よかった! ちゃんと焼けているようだ。
「……お兄ちゃん、おきてる?」
「あっ、芽生くん? もう起きたの」
「早くねたから、早く朝がきたんだよ。病院にいるときは、お昼までがタイクツだったよ」
芽生くんが訴えるように言うので、胸が切なくなった。
「芽生くん、抱っこしてもいいかな?」
「うん、してほしいなぁ」
僕はお布団の中で、小さなな温もりをギュッと抱きしめて、芽生くんがようやく戻ってきてくれたことを実感した。
「おはよう、芽生くん!」
「お兄ちゃん、ボク、もどってきたよ。ずっとここにいるよ」
「うん、うん、ありがとう」
「パン、焼けたかな?」
「あと30分くらいかな?」
「まちどおしいね」
「うん。待ち遠しいよ」
芽生くんの幸せは、僕の幸せ。
一緒に待ち遠しく思えるのも、幸せだね。
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