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心をこめて 53

 俺も、本当は少し前から目覚めていた。  パンが焼き上がる香ばしい香りが寝室まで漂ってきて、腹がグーっと鳴りそうだ。だがグッと堪えた。  何故なら天使の甘い囁きをそっと聞いていたかったから。  瑞樹と芽生が布団の中で交わす会話、可愛すぎだろ!  まずい……愛しすぎて泣けてくる程だ。  瑞樹が優しく芽生を抱きしめている。芽生も瑞樹に素直に甘えている。  俺は、そんな二人が愛おしい。  恋人と息子への愛情が、どんどん湧いて溢れてくる。  離婚するまで、愛は限りあるものだと決めつけていた。こんな風に泉のように自然に湧き上がってくるものだとは知らなかった。  無限に溢れ出る愛の源泉を、人は誰もが持っていることにようやく気づけた。  いくらでも溢れ出るから、惜しみなく注いでも大丈夫なんだ。  決して枯れることはない。  だから今日も朝から新鮮な愛がどんどん湧いてくるよ!  我慢できず、話し掛けてしまった。  俺も輪の中に入れて欲しくて。 「瑞樹、芽生、おはよう!」 「わぁ~ パパもおきたの?」 「宗吾さん、おはようございます」  瑞樹が芽生を抱きしめてくれるなら、俺は二人をすっぽり抱きしめよう。 「いい匂いがして目覚めたよ」 「ボクもー!」 「僕もです。お腹が空きましたね」  出会った頃の瑞樹は幸せに臆病で、いつも人の後ろに佇む、控えめで寂しげな男だった。だが今は明るく朗らかに笑い、食欲も旺盛になってきた。  芽生も離婚して二人で暮らしていた頃の不安そうな表情はすっかり消え、今は元気いっぱい子供らしい笑顔を振りまいている。伸びやかに成長している。 「みんなでくっついているとあったかいね」 「あぁ、とても」 「本当にそうですね」  季節はまもなく2月を迎え、冬本番を迎える。  外は極寒だが、布団の中はポカポカだ。 「よし! もう起きるか」 「はい!」 「やったー」    リビングに行くと、ホームベーカリーが稼働していた。 「まだかな?」 「まだだ」 「まちきれないよー」 「僕もです」  瑞樹も童心に返ったように目をキラキラと輝かせて、可愛いな。 「よーし、あと15分あるから、今のうちに家事をしよう。その分ゆっくり朝食を取れるし遊べるぞ」 「やった! ボクね、おうちのおてつだいもしたかったよ」 「朝から家事をするのは久しぶりですね。すっかり鈍ってしまいました」 「ずっとお父さんたちにやってもらって有り難かったな」 「はい。おかげで芽生くんのことに専念できました」  芽生が家中のカーテンを開けてくれ、瑞樹が洗濯機を回し、コードレス掃除機で隅々までキレイにしてくれる。俺は昨日食い散らかしたままの台所で鍋を洗うことからスタートだ。  それぞれが分担して行動する。  大変な家事も、手分けすれば楽になるな。  掃除に限らず、物事は何でも一人で背負うと辛いが、共にやってくれる人がいるとグッと楽になる。  そこに焼き上がりを知らせるアラーム音が鳴った。 「焼けたぞ! 取り出そう!」 「宗吾さん、ミトンを」 「おう! まかせろ」  説明書通りパンケースを取り出しブンブンと上下に大きく振ると、スポンとパンが抜けた。 「わぁ!」 「わー!」  瑞樹と芽生の歓声があがる。  朝から盛り上がってんな。  いやいや俺も驚いた。  こんなに綺麗に、こんがりきつね色に焼けるなんて。  絵に描いたような食パンの完成だ! 「すごいな」 「えぇ、全自動でここまで出来るなんて」 「パパ、やきたてたべようよー」 「少し冷まさないと切れないんじゃないか」 「でもぉ」 「僕も食べたいです」 「よーし、今日は無礼講だな」  俺たちは焼き立てパンを大きくちぎって、ガブッとかぶりついた。 「ふわぁ、あったかい! おいしいー」  芽生が大きな口をあけてモグモグ。  心底美味しそうな顔を浮かべている。  瑞樹も同じように、とろけそうな顔をしている。 「美味しいか」 「宗吾さんも食べて下さい」 「あぁ」  俺も豪快にパンを頬張った。 「おぉ! これはうまいな! 皮がカリッとして中がふわふわだな」 「はい、くせになりますね」  芽生はどうだ? 振り返ると、大きな目に涙をうるうると溜めていた。 「ど、どうした? 熱かったか」 「ううん……ずっとね、朝ごはんひとりでたべていたから、うれしくて……アツアツのパン……おいしくてたまらないよ」 「芽生くんっ」  すぐに瑞樹が芽生を抱きしめてくれる。 「芽生くん、長い間、本当に頑張ったね」 「ボク、いっぱい、いっぱい……がまんしたんだよ」 「うん、うん、偉かったね。芽生くんはもうひとりじゃないよ。これからはみんな一緒だよ」 「お兄ちゃん……パパぁ、ボク、ここにもどってこられてよかった……こわかったよ」  芽生、怖くて当たり前だ。  弱音を吐いていい。  大人だって病気は怖い。  慣れない場所に、一人は怖い。  芽生はあの広い病室にひとりで、話す人もいない中、本当に頑張った!  一斤の食パンはあっという間になくなってしまったが、俺たちの心はふかふかのポカポカになっていた。 「あー とっても幸せな味だったね!」  芽生の素直な言葉に、瑞樹と俺は大きく頷いた。  朝から焼き立てパンを食べられること。    家族で美味しいと言いあえること。  小さなしあわせは、今日もあちこちに転がっている。  滝沢ファミリーもようやく揃った。  今日からまた新しいスタートだ!  

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