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秋色日和 19

「ん? おかしいな。門に人が並んでいないぞ」 「……例年なら開門まで長蛇の列なのに変ですね」 「とにかく行ってみよう!」  校門付近まで瑞樹と近寄って、ギョッとした。  小学校の門は既に開門されて、中に校庭に大勢の人がいた。 「えっ?」 「えっ?」  二人で顔を見合わせて、真っ青になった。 「もしかして開門時間を間違えたのか」 「そんな……」  慌てて張り紙を見ると、例年より30分繰り上げられていた。 「迂闊にも見落としたな」 「すみません。僕もです。ついいつも通りだと……僕のチェックが甘かったです」  しょぼんと項垂れた瑞樹は、今にも泣きそうな顔をしている。  君はこういうシチュエーションに弱いから、心配になるよ。  元気づけてやりたい。 「なぁに、まだ後方のスペースは空いているから、大丈夫だ」 「ですが……芽生くんから珍しく『ボクからよく見えるように、今日は前の方に座ってね』と頼まれていたんです。どうして僕は肝心の確認を怠ってしまったのか。最近幸せ過ぎて幸せ惚けしていたのかも」  おーい、瑞樹、それは落ち込み過ぎでは?  とにかく気持ちを切り替えて、早く場所を押さえないと。 「仕方がないさ。起きてしまったことは戻せないんだから、さっさと気持ちを切り替えようぜ! さぁ席を探しに行こう!」  俺はこれで立ち直れる。 「ほら、行こう!」 「あっ……」  勢いをつけてやりたくて瑞樹の背中を軽く叩くと、ほろりと涙を零した。 「えっ?」 「あ、すみません。なんでもないです」  慌てて手の甲で拭き取った一滴の涙に、一転して胸が切なくなった。  また俺はやっちまった。  自分のペースで突っ走りそうになった。  世の中の人が、皆、俺みたいにフットワーク軽く突っ走るタイプではないのは知っているくせに。  瑞樹は繊細でナイーブな男だ。そんな彼に向かって『起きてしまったことは取り戻せない』と残酷な言葉を投げつけるなんて最低だ。 「すまん。悪かった」 「いえ、僕こそ落ち込みすぎですよね。すみません。気持ちを切り替えますね」 「いや……その……」 「もう終わりにしましょう。今日は運動会ですよ」 「それはそうだが」  俺もズドンと落ち込んで、引っ込みが付かなくなってしまった。  そこにヌッと影が…… 「宗吾、瑞樹、おはよう」 「に、兄さん?」  全身濃い緑のジャージ?  それ、誰のだよ?  いきなり昭和な雰囲気の男が現れたと思ったら、それは兄さんだった。 「憲吾さん、もういらしていたのですか」 「兄さん、早いな。席取りした後でいいって言ったのに」 「あー コホン、その楽しみで4時に目覚めた」 「4時?」  兄さんは眼鏡のフレームを指で押さえて、咳払い。  ははっ、照れているんだな。  兄さんは分かりやすくなった。  そして俺、兄さんに構えなくなった。 「兄さん、昨日はありがとう! 助かったよ」 「あぁ、それより席はいるか」 「は?」  一瞬、兄さんの言葉が飲み込めない。  兄さんの悪い癖は、言葉を目一杯端折ることだ。 「あー実はだな、あまりに早く来すぎたので席取りというものを練習してみたのだ。すると思いがけず良い席が取れたので、そのままにしてあるが、宗吾たちはもう席を押さえたのか」  なんと、なんと! 「兄さん、でかしたぞ~」 「お、おい、兄に向かってその言葉遣いはなんだ?」 「へへ、嬉しくてさ」  俺が兄さんと肩を組んでいると、瑞樹の気持ちも上向いたようで、明るい表情になっていた。    そうだ、君はその方がいい!  笑って欲しい。  君の笑顔が宝物なんだ。 「憲吾さん、ありがとうございます。あの、席はどの辺りですか」  瑞樹が可愛い笑顔で訊ねると、兄さんはデレッと頬を緩めた。 「おぉ、実は最前列なんだ。芽生がよく見える位置を研究したから角度もばっちりだ」 「憲吾さん、素敵です!」 「わ!」 「ありがとうございます。僕、すごく、すごく嬉しいです」  無邪気に兄さんに抱きつく瑞樹。  兄さんは眼鏡がずり落ちそうな程驚き、その後蕩けそうな甘い顔を見せた。 「ここにも相思相愛のブラコンが誕生したな」  函館の広樹もいたら大騒ぎになりそうだ。  みんな、瑞樹が好きなんだよ。  君は愛される存在だ。  だから安心してくれ。    それにしても今日も兄さんに助けられた。    兄さん、カッコいいよ。  流石、俺の兄さんだ。    昔は対抗意識を燃やして張り合い争ってばかりだったが、今は違う。  仲間意識の方が強くなった。  兄さんと同じ滝沢の姓を名乗れて誇らしいよ。  滝沢チームは、ますます結束が固くなっていく。  愛する人の存在は心を強くする。そして心が豊かになると、優しくなれるようだ。  瑞樹を愛してから、俺は繊細なものに目を向けるようになれた。優しさや労りなどの心遣いは、心で深く感じるものだということも知った。  きっと頑固で生真面目過ぎた兄さんも、今は美智さんと彩芽ちゃんに囲まれて、同じ境地なのだろう。 ****  保育園の運動場は、たいして広くない。  オレたちが到着すると既に大勢の保護者が集まり、シートを敷いて場所取りをしていた。 「あれ? 出遅れたか」    もう観覧スペースの後方しか、空いている場所がないようだ。 「いっくん、ごめんな。後ろの方になっちゃうな」  いっくんはキョトンとしている。 「パパぁ、なんでごめんなしゃいするの? うしろのほうがひろいよ。 おじいちゃんもおばあちゃんもきてくれるんでしょ? だからひろいところがいいよぅ」  そうか、確かにそうだな。  今日は人数も多いし、槙を寝かスペースも欲しいので広い方がいい。それに最前列だと出入りし難いので、槙が泣いた時に大変だ。 「いっくんの言う通りだな。じゃあ、いっくんが好きな場所に敷こう」 「えっ! いっくんがえらんでいいの?」  いっくんがまた小さな口に両手をあてて、目を見開いている。  一体どれだけの寂しい想いを募らせてきたのだろう。この子は―― 「あぁ、探しておいで」 「ほんとに、いっくんのすきなばしょでいいの?」 「あたりまえだよ」 「わぁ、わぁ、いっくん、みてくるね」  すると、入れ違いですみれがやってきた。 「潤くん、あのね……潤くんと出会う前は、休日にアウトレットのお店をどうしても休めなくていつも出勤していたのよ。だから実はいっくんの運動会を見たことがないの。こんな母親、軽蔑するよね? 息子の運動会におにぎりしか持たせられなくて、よそのお母さんに昼食を頼んで……私……最低だったわ」  すみれが寂しそうに呟いた。  その光景が浮かぶよ。  すみれが幼いいっくんを抱え、誰にも頼れずに必死に働いていた姿が。 「過去は過去だ。この先はもう大丈夫だ。これからは家族でこうやって見に来ればいい」 「潤くん、ありがとう。いっくん、すごくうれしそうだし、私も嬉しい」 「オレさ、いっくんの気持ちがよく分かるし、すみれの気持ちも分かるんだ。俺もそうやって育ってきたし、そういう母を見てきたから」 「潤くん」  すみれのほっそりとした手をギュッと握ってやった。  もう大丈夫だ。    オレを頼ってくれ。  本当はずっと皆に頼ってもらいたかったんだ。  だけどいつも周りはオレを子供扱いして、腫れ物みたいに扱って、ムシャクシャしてた。  でもそれは当たり前だった。  我が儘放題でいい加減で、人に頼りにされるような人間じゃなかったんだ。 「潤くんってすごく頼り甲斐があって大好きよ」 「すみれ、その言葉、すごくうれしい!」  そこにいっくんが戻って来た。 「あちょこがいい」  指差す方向には、枝振りのよい樹木が植わっていた。 「木の下か」 「うん、はっぱしゃんもね、いっくんといっちょがいいってぇ」 「はっぱさんか、そうだな。ちょうど日陰になっていいな」 「うん!」  いっくんと大きなレジャシートを広げた。 「わぁぁ、しゅごい、しゅごい。これいっくんの?」 「そうだぞ、いっくんのシートだ」 「わぁ……わぁ……いっくん、きょうはおべんと、ここでたべるの?」 「そうだぞ、おじいちゃんとおばあちゃんも来るから、大きな輪になって食べような」  いっくんが上を向く。  泣くのを堪えているのか。 「いっくん、泣いてもいいよ。嬉し涙は身体にいいと兄さんが言ってたから」 「ほんと? いっくん、えーんえーんしないって、おやくそくしたんだけどね、なんかへんなの。あったかいなみだがでるよぅ」  いっくんの涙は、太陽を受けてキラキラと輝いていた。  そこにシャッター音がした。 「あ、お父さん!」  一眼レフを構えるお父さん、その横に幸せそうな笑顔を浮かべるお母さん。 「いっくん、よかったな。あったかい涙は幸せの涙だぞ」 「おじいちゃん、おばあちゃん、あいたかったぁー」  いっくんが飛びつくと、また笑顔の花が咲いた。

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