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冬から春へ 3

 お正月が終わり、いっくんは保育園に通い、オレは仕事へ。  いつも通りの日常が再びスタートした。  いよいよ明日は1月11日、いっくんの誕生日だ。  明日からオレの職場が2週間の冬期休園に入るので、仕事量も減り、いつもよりずっと早く保育園へ迎えに行けた。 「いっくん!」  下駄箱で手を振ると、いっくんが荷物をまとめて満面の笑みでタタッと走ってくる。 「パパぁ、あいたかったよー」 「おれもだよ」 『会いたかった』  これは、いっくんと出会ってから繰り返される魔法の言葉。    オレはいっくんと出会ってから『また会いたい』と思ってもらえる人になりたくて努力している。  家族だから、父親だから、顔を付き合わすのは当たり前だとは思いたくない。  揺るぎない立場に甘えたくはない。  若い頃の俺は、どうせ家族なんだから、ちゃらんぽらんな生活をしても見放されないだろうと、母と二人の兄に貪欲に甘えていた。  今考えると、あれは狡い甘えだった。 「パパぁ、おほしさま、きれいだね」 「あぁ、空のパパの星も見えるか」 「うん、あれだよ!」 「そうか」  いっくんと手を繋ぎながら歩く道。  凍えそうに寒いのに、心はポカポカだ。 「いっくん、誕生日プレゼントは何がいい? もう明日だぞ」 「パパ、もうなにもいらないよ」 「そんなこと言わずに……普通は成長するにつれ、次々に欲しいものが浮かぶだろう?」 「でもぉ、いっくんには、パパとママとまきくんがいて……もう、みんなそろってるよ」  いっくんは首を傾げて、空を見上げた。 「おそらにはパパもいてくれるし、いっくんね、もうこまってないよ」  こんなに欲がなくていいのか。  いっくんには今まで苦労した分、大きな夢と希望を抱いて欲しいのに。  親になると、こんなにも子供の笑顔が見たくなるんだな。  子供の顔が輝くよう、しっかりサポートしていこう! 「じゃあ、きょねんみたいな、おたんじょうびかいしたいな」 「それは、ちゃんとするよ」 「えへへ、ありがとう。こんどは、まきくんもいるから、またはじめてだね」 「そうだな」 「あのね、おたんじょうびかいすると、ママがおいしいケーキをたべられるからうれしいね」 「いっくん……」  あれ?   そういえば、年が明けてから急に舌っ足らずな喋り方が減ったような。    これも成長なのか。  少し寂しいが、とても嬉しいことだ。    こうなってくると、ますます、いっくんがまだあどけないうちに出会えてよかったと思うよ。  ローズガーデンで出会った時、いっくんはとても幼かった。  オレとの思い出を増やすために、ゆっくり成長してくれていたんだな。  それに気づけてから、毎日が一段と愛おしくなった。  スタートラインを揃えて、一緒に成長していこうな。  いっくんと俺はいつまでも親子だ。  いっくんを笑顔で見つめると、いっくんも笑顔を返してくれる。  途端に、優しい気持ちになる。  一番深いところで、いっくんと仲良くできているんだな。  いっくんと手を繋いでいつも通り家に戻るつもりが……  アパートの手前で、微かに焦げ臭い匂いがした。    なんだ? この匂いどこかで?  昔、工事現場で働いていた時、事故があって嗅いだことがある。  血の気がさっと引く。  匂いの出所を辿ると、アパートの1階の部屋の窓にオレンジ色の炎が見えた。  大変だ! 火事だ! 「いっくん、絶対にここから動くな」 「うん、わかった」  いっくんを安全な場所に移動させ、すぐに消防に通報して、アパートの階段を駆け上がった。部屋のドアを叩いて「火事です。逃げて下さい」と知らせ、自分の家に飛び込んだ。 「菫! 槙、無事か!」 「潤くん、どうしたの? 騒がしいけど……あら、いっくんはどこ?」  菫は全く気づいていなかった。  オレがいなかったら大変なことになっていた。  冷や汗が出る。 「菫、下の階から炎が上がっている。逃げるぞ」 「えっ、ちょっと待って! 荷物をまとめないと」 「そんな時間はない!」  俺は菫の手を引っ張り、槙を抱えて階段を駆け下りた。  皆、部屋から飛び出して避難していく。 「いっくんは?」 「こっちだ!」    いっくんはアパートの向かい、一軒家の玄関先で待たせていた。    この前、ちょうど南天を分けてもらった家だ。  ここなら安全だ。 「いっくん、大丈夫だったか」 「うん」 「いっくん、ママを頼む!」 「うん! わかった」 「潤くん、待って! どこへ」 「まだアパートに人がいるかも」 「でも」 「大丈夫だ、無理はしない」  1階の火元には近づけないが、火の手はまだ二階まで上がっていなかった。    一番端のおばあさんは足が少し悪かった。 「助けておくれ……助けて」    案の定逃げ遅れて、廊下で立ち往生していた。 「おばあさん、こっちです。オレの背中に乗って下さい」 「あぁ……よかった。ありがとう」  オレは急いで階段を駆け上がり、おばあさんを背負って避難した。  危機一髪だ。  その後火が一気に燃え上がった。  けたたましいサイレンの音と共に消防車が到着して、消火活動が始まる。  家族を待たせた場所に戻ると、すみれが槙を抱いて震えていた。    いっくんがすみれをギュッと抱きしめていた。 「ママ、大丈夫だよ。パパはすぐもどってくるよ」 「潤くん……潤くん……」  オレはすぐに駆け寄って菫を抱きしめた。 「ごめん。心配かけて……もう、大丈夫だ。オレたちは無事だ」 「潤くん……怖かった……すごく怖かったの」  オレは着ていたダウンを脱いで、すぐに菫に羽織らせてやった。  すみれは槙をしっかり抱きしめ、その場に崩れ落ちた。 「菫、しっかりしろ」 「潤くんがいなかったらと思うと……足が震えて……」 「大丈夫。大丈夫だ。もう安心しろ。彼が守ってくれたんだよ」 「あ……これ」 「ごめんな。これしか持ち出せなかった」  避難する時、とっさに掴んだ彼の位牌をそっと菫に渡すと泣き崩れた。 「潤くん……あなたは優しすぎる」 「そんなことない。オレがそうしたかったんだ。彼はもう一人のお父さんだから、オレたちとずっと一緒だ」 「うっ……」  人生何があるか分からない。  一瞬の出来事で、全てが変わってしまう。  そのことを身をもって体験した。  空からはしんしんと雪が降り出した。  今日の雪は水分を含んで、重たかった。    まるで美樹さんの涙を含んでいるように―― 「いっくん、大丈夫か」 「うん、パパがいるもん」 「家族みんな無事だ。なんとかなるさ」 「うん!」  炎がアパートを包んでいく。  オレだけだったらひどく落ち込んでしまっただろう。  だが……いっくんが泣きもせず菫を守る姿に、勇気をもらった。  家族……皆、無事だ。  それで十分じゃないか。  また一からスタートすればいい。

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