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冬から春へ 61
「いっくん、いってらっしゃい」
「うん、ママぁ、ありがとう」
「いっくんはいっくんよ。いつも大好きよ」
「いっくんもママがだいしゅき」
えへへ、ママ、いっぱい、いっぱい、いっくんを、みてくれるよ。
うれちいな。
きのうは、ちょっとさみしかったけど、やっぱりいっくん、ようちえんにいきたくなったよ。
だって、おうちのみんなが、ゆっくりでいいって、いってくれたから。
いまのいっくんには、おうちのひとは、ママだけじゃないんだよ。
パパがいるし、まきくんがいる。
おじーちゃんもおばーちゃんも、そーくんもみーくんも、ケンくんもヒロくんもたくさんいるんだよ。
だからね、なんだかあんしん!
おきょうしつのまえで、いっくん、ごあいさつするんだ。
ごあいさつって、とってもだいじだってママがいってたよ。
めーくんもおしえてくれたよ。
どうやってみんなにこえをかけたらいいのかわからないって、そうだんしたら、「おはよう」から、はじめればいいんだよって。
だから、おおきなこえで……
「おはよう!」
ドキドキしながらキョロキョロすると、きのうおとなりだったおとこのこが「おはよう」っていってくれたよ。
「おはよう! きょうはあそべるか」
「ケンくん、おはよう」
「オレのなまえおぼえていたのか」
「うん、すごくかっこいいね! いっくんのおじさんとおなじおなまえだよ」
「かっこいいおじさんといっしょか。へへ、そうか! あさのじかんはきょうしつであそばないといけないんだ。だから、おえかきしようぜ」
「うん!」
「これつかっていいよ」
「わぁ、ありがとう」
ケンくんにくっついていくと、いっくんに、がようしとクレヨンをかしてくれたよ。
いっくんのだいじなもの、みんなもえちゃったから、もうないんだ。だからとってもうれしいよ。
「おれはサッカーのえをかいているところ」
「わぁ、じょうずだね。サッカーっておもしろいよね」
「へぇ、いつきはサッカーできるのか。じゃあ、ようちえんのサッカーきょうしつにはいるのか」
「えっと、おにいちゃんとパパにならっているから」
「へぇ、いいな。じゃあサッカーボールのえ、かけるか」
「うん」
とうきょうにきてから、ずっと、おうちで、おえかきをしていたの。
めーくんのサッカーボールをみながら、おえかきしていたら、じょうずにかけるようになったんだよ。
「すごくじょうずだな」
「あ、ありがとう」
ほめられっちゃった!
うれちい。
おはようからはじめて、だいせいかいだったよ。
めーくんのいうとおりだね。
めーくんは、やっぱりたよりになるおにいちゃんだよ!
****
俺たちが軽井沢にいられる時間は限られている。
もう間もなく、夏の写真展に向けて準備に入らないといけないので、大沼に戻って写真家としての活動を再開しなければ。
だから1日1日が貴重だ。
なるべく早く潤の家のリフォームを完成させ、潤が東京に家族を迎えに行けるようにしてやりたい。
よし、今日も集中しよう。
ガタついたドアを調整し、ボロボロになっていた貼り替えるために壁紙を剥がしていると、潤が浮かない顔で手を止めていた。
「潤、どうした? 具合でも悪いのか」
「あ、父さん……大丈夫です。ただ、いっくんが昨日は幼稚園に馴染めなかったようで、今日はどうかなって心配で。その……オレってかなりのやんちゃ坊主だったので、なんていうのかな、こういう時、いっくんの繊細な気持ちに寄り添えなくて、これじゃ父親失格だなと」
潤は自分ではやんちゃ坊主で我が強いと決めつけているが、そうじゃないさ。
いっくんの心配をする時点で、充分優しく頼もしい父親になっている。
「潤、そんな簡単に父親失格だなんて言うなよ。父親っていうのは、子供といっしょに成長していくものだ」
「父さん……」
「そういう俺もまだまだ父親歴が短いので、偉そうなことは言えないが。悩みがあるなら話せ。いくらでも相談にのるし、寄り添ってやりたい」
「うっ、父さん……朝から……そんな嬉しいこと……」
それを聞いていたさっちゃんも涙ぐんでいた。
「勇大さん、ありがとう。何度でも伝えたいわ。潤のお父さんになってくれて、本当にありがとう」
この親子は俺と出会うまで、どんなに寂しい思いをしてきたのだろう。
同時にこの親子を残して旅立ったご主人の気持ちを思うと、胸が締め付けられる。
大樹さんも同じ気持ちだったに違いない。
幼いみーくんだけ地上に残して逝かないとならないことに戸惑い、悩み、苦しんだだろう。
連れて行くわけにはいかないと、未練を振り絞り、あの世に旅立ったのだ。
「さっちゃんと潤に出逢えて、俺は幸せだよ。さぁ今日は子供部屋に新しい壁紙を貼って、棚もつけてやろう。潤、もう一息だ」
「はい!」
潤の幸せは、俺とさっちゃんの幸せ。
そして、みーくんと広樹の幸せだ。
誰かを幸せにするって、自分が幸せになることなんだな。
大樹さんと澄子さんが、俺を幸せにしてくれた分、いや、それ以上の愛を、今度は俺が家族に注いでいきます。
****
「瑞樹、俺たちもそろそろ行こう」
「はい」
「あのさ、昨日はありがとうな」
「え? 僕は何も……」
「いや、帰って来た時に、家に君がいてくれるだけで元気になるんだ」
「あ……それは僕も同じです。昨日も宗吾さんが帰ってきた途端、ほっとしました。一人で頑張らなくてもいいんだなって……力が抜けて」
「そうか」
瑞樹の言葉は優しい。
瑞樹の言葉は柔らかい。
それを感じる自分が好きだ。
俺がこんな繊細で優しい関係を築けるなんて、まだ信じられない。
「宗吾さん、春が待ち遠しいですね」
「そうだな、冬の次は春だから、絶対やってくるさ」
「はい! 宗吾さんの言葉、いいですね」
少し色素の薄い明るい瞳に映る俺は、君にとってどんな男だ?
問いかけるように見つめると……
ふっと頬を緩めて、教えてくれる。
「宗吾さんは、僕にとって恵風《けいふう》のような人です」
「恵風とは?」
「春に吹く暖かく穏やかな風、恵みの風です。冷たい雪をとかして、草花を芽生えさせる風のような人が宗吾さんです」
「嬉しいことを」
やっぱり瑞樹は優しいな。
俺を上機嫌にさせる名人だ。
最高に嬉しい気持ちを乗せて、通勤電車は動き出した。
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