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冬から春へ 62

「今日は給食よ。樹くん、いきなりだけど大丈夫?」 「せんせい! いっくんは、ほいくえんで、いつもきゅうしょくだったから、だいじょうぶだよ」  だけどね、ようちえんのおべんとうはつめたくて、たくさんはいっていて、びっくりしちゃった。  ほいくえんだと、きゅうしょくのまえには、ろうかがいいにおいになって、ほかほかのごはんとおかずがおへやにとどくの。かっぽうぎをきた、やさしいおばさんがとどけてくれるの。  でもね、ようちえんはみんなおなじのあかいおべんとうばこで、ほいくえんのきゅうしょくとは、ぜんぜんちがったよ。  きょうはちゃんとはやくたべないと、がんばらないと。  でもかたいハンバーグも、オレンジいろのウインナーも、つめたいたまごやきも、いつもとちがってむずかしいよぅ。 「あらあら、樹くん、全然進んでないわよ。好き嫌いしないでがんばろうね」 「うん」  がんばらないと、またいっくんひとりぼっち。  おいていかれちゃうよ。  でもね、がんばっても、がんばっても、しろいごはんがぎっしりでへらないよ。  ないちゃ、だめ。  もうなかない。  がんばるもん。  うつむいていると、まえのせきのおんなのこが、こえをかけてくれたよ。 「いつきくんは、おべんと、にがて?」 「あ……えっとね、にがてっていうか、たべたことないものばかりで、むずかしいんだ」 「あ! わたしもなの。ねぇねぇ、いっしょにがんばらない?」 「うん!」  きょうはひとりじゃないんだ。  いっしょにがんばってくれるこがいるんだ。  そうおもったら、うれしくなったよ。  ひとりでもがんばらなくちゃいけないけど、だれかといっしょなら、もっと、がんばれるときってあるよ!  パパもがんばってるよ。  いっくん、パパにあいたいよ。  パパもいっくんにあいたいって、いってくれたよ。  だから、いまは、おじいちゃんとおばあちゃんとがんばってるっていっていたよ。  いっくんもおともだちと、がんばってみるよ! ****  出掛けようと思ったら雨が降ってきたわ。  天気予報通りね。  芽生くんがつかってねと渡してくれた、小さな傘を持って、槙は抱っこで幼稚園に向かった。  すっかり腰の調子も良くなったわ。  生活が安定して、心も身体も健康になったみたい。  いっくん、今日は幼稚園どうだったかしら?  幼稚園の給食は、食べ慣れない物ばかりで苦戦しちゃったかも。  幼稚園の給食は業者さんの物だから、みんな慣れるまで大変だって言っていた。  うーん、心配だわ。  心配ばかりしていたら、いっくんの負担になるって分かっているのに、私ってば駄目ね。  以前は目まぐるしい程忙しくて、細かい心配をする暇はなかった。  あ、そうか。  心配してもらえるって、それだけの時間を注いでもらっていることなのね。  疎遠になっている実家の両親を、ふと思い出した。  何もしてくれないと恨んでばかりだったけれども、私にも優しい温かい思い出がちゃんと沢山あるわ。  母のお弁当、母の優しい手、父の逞しい背中。  私も手を掛けて育ててもらった人間なのね。  降り注ぐ太陽や月の光のように、惜しみなく愛情を注いでもらったから、今、私は愛を知っているのね。  お父さんとお母さんにとって遅くに授かった私は、他の子と比べて自分の親が年老いていることが嫌で自ら疎遠になって……美樹くんが亡くなった時もいっくんを出産した時も、出来るだけ頼りたくなくて、自ら離れてしまった。  今度、私から連絡をしてみよう。きっと心配しているわ。  私が疎遠になるにつれ、次第に両親も私に手を差し伸べてこなくなった。それを、捨てられたと決めつけてしまったの。  私は、いつの間にか損得勘定で動く人になってしまっていた。    潤くんと出会ってから、潤くんのご両親、お兄さん家族と出会い、月影寺の皆さんと交流したり、縁というものを強く意識するようになったの。  月影寺の翠さんが仰っていたわ。 「良いご縁を結べば、良いことがありますよ」  本当にその通りね! 今回の火事も、私たち夫婦だけで意固地になって生きていたら、路頭に迷う所だったわ。  沢山の手、差し出される手を取ってみよう。  人に甘えるのは、悪いことではない。心を大きく開いていけば、優しい気持ちを沢山受け止められるわ。 「ママぁー!」  お迎えの列の中に、いっくんの笑顔を見つけた。  昨日はいっくんの姿が見えなくて焦ったけれども、今日はちゃんといてくれる。  笑顔の花を咲かせて、立っていた。 「いっくん! 雨が降ってきたので、傘を持ってきたわよ」 「ママぁ、ありがとう! うれしいよぅ! きょうはおともだちとあそべたよ。サッカーボールのえ、ほめられちゃった。それからね、きゅうしょくをいっしょにがんばってたべてくれる、おともだちもできたの」  いっくんのは頬は薔薇色で、目はキラキラと輝いていた。 「よかったわね」 「うん、いっくん、とーっても、うれしかった」  子供の明るい言葉は、大人にとって栄養よ。  子供の笑顔は、万能薬だわ。 ****  午後から予報通り雨が降ってきた。  僕は会社から出てすぐに、花材が濡れないようにと、を花に寄せて傾けた。  すると背後から声をかけられた。 「ひゃっほー 葉山先輩じゃないですか」 「……金森くん」  久しぶりに他部署に移動した、元部下の金森鉄平に会った。 「先輩も外出ですか」 「今から銀座のお店に生け込みに行く所なんだ。君も?」 「オレは先輩に花材を届けに行くところですよ。それにしても、雨の日の外回りって最悪ですよね。めんどくせーってなりません?」  うーん、相変わらずだなと、顔をしかめてしまった。  彼が持っている花は雨にぐっしょり濡れてしまっていた。  そんなに乱暴に扱っては、花が可哀想だ。 「天気は関係ないよ。僕たちは花を生かすのが仕事なのだから」 「でも、雨はうざいっすよね。大っ嫌いです」 「……雨が可哀相だよ」 「ははっ、葉山先輩みたいにお人好しには考えられませんよ。あ、信号変わった。オレは向こうなんて、じゃ!」  ……相変わらずだな。  晴れの日には晴れの日の良さ、雨の日には雨の日の良さがあるのを、君は知らないのか。  365日ずっと晴れていたら、草花が干からびて枯れてしまうよ。    そして人生は良い時と悪い時の繰り返しだというのも、知らないのか。  今日という日は、二度とやってこない。かけがえのない大切な日。だから、僕はどんな日でも受け入れていこう。人に寄り添うように、天気にも寄り添って。  良いことも悪いことも、波のように押し寄せては引いていくのが、人生だ。  だから、自分の足でしっかり立っていないと、荒波に攫われてしまうよ。  そのためにも、僕は僕を見失わない。  あっ、信号が変わった。  さぁ、進もう。  帰る場所があるから、寄り添える人がいるから、僕は僕らしく生きて行ける。  信号を渡りきると、ふと透明の傘を頭上に感じた。  宗吾さん?  今は傍にいないのに、彼の存在を身近に感じられた。  今の僕には、透明の傘をスッと差してくれる人がいる。辛いことや悲しいことがあっても、その衝撃を柔らげて、一緒に受け止めてくれる人がいる。  大好きな人との心の中での逢瀬が、また僕を元気づけてくれる。  だから、雨も悪くない。

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