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冬から春へ 69

「潤は明日、何時頃、帰るの?」 「そうだな、父さんたちが入れ違いで大沼に戻るから、朝にはここを出るよ。宗吾さんのご実家に挨拶したら、そのまま帰るつもりだ」 「あさ?」  僕と潤の会話に、潤のお膝に座っていた、いっくんがピクッと反応した。 「いっくん、どうした? 早く新しいお家を見たいだろう?」 「……うん、みたいよ」 「よしよし、じゃあ早起きして早く帰ろうな」 「う……ん」  いっくんは嬉しいはずなのに、少し浮かない顔をしていた。   「あれ? 元気のない返事だな。どうした?」 「え……ううん、なんでもないよ」  いっくんの『なんでもない』は、何かある証拠だ。  僕もいつもそうだったから分かるよ。  広樹兄さんと母さんに聞かれても、いつも首を横に振っていたから。 …… 「瑞樹、何か困ったことがあるのか」 「ううん、なにもないよ」 「でも寂しそうな顔をしているぞ」 「僕は大丈夫だよ」  広樹兄さんは、いつも丁寧に僕の心を探ってくれた。  寄り添ってくれたのに、あの頃の僕は頑なに否定してばかりだった。  今なら分かる。  自分の感情に素直になるのは、悪いことではない。  悲しい時には泣いても良かった。  嬉しい時には沢山笑ってみれば良かった。  感情を隠しすぎて、結局心配させてしまった。 ……  潤がいっくんを抱き直して、幼い目をじっと覗き込んだ。 「いっくん、パパにちゃんと話してくれ。いっくんの気持ちを知りたいんだ」 「……パパに、はなしてもいいの?」 「あぁ、もちろんだ。ちゃんと聞かせてくれ」 「あのね……いっくんね、もうようちえんにはいかないの?」 「そうだよ。いっくんは軽井沢の保育園にまた通えるんだぞ。良かったな」 「う……ん」  いっくんの顔は、浮かないままだった。  あ……もしかしたら……  僕が出しゃばっていいのか。  いや、ここはあえて出しゃばってみよう。 「いっくん、もしかして……幼稚園のお友達にお別れを言いたいのかな?」 「あ、みーくん、どうして分かるの」 「……そうだね。僕だったら、そうしたいからかな」  葬儀の後、すぐに函館に行くことになり、それまで通っていた小学校の友人にお別れを言う機会がなかった。それどころではなかったから当然だが……  別れを言えなかったことが、ずっと心残りだった。  仲良しだった友だち、優しかった先生、お世話になった人達にさよならを言えずに、僕は大沼を出た。  まるで僕だけしゃぼん玉のようにパチンと消えてしまったような、寂しい気持ちで一杯だった。 「兄さん、オレ、全然気付けなかったよ。あー これじゃ父親失格だな」  潤が項垂れて、髪をゴシゴシ掻きむしった。 「そうじゃない、じゅーん」  成功とか失敗ではないんだ。 「潤、こんなことで失格になっていたら、世の中のお父さんが全員消えてしまうよ。親子の関係って、上手くいく時ばかりじゃないよ。すれ違ったり離れたり……それでも最後はお互いに歩み寄って、また一緒に歩んでいく。そうやってどんどん絆を深めていくんだよ。って、僕が偉そうに言うことではないけれどもね」  芽生くんとも、僕はそうやって絆を深めていけたらいい。  思春期になった芽生くんの心が一時的に離れてしまっても、僕はそれを成長の過程だと受け止めるから、どうか怯まないで、僕に遠慮しないで欲しい。 「兄さん……ありがとう。オレは父親を知らないから、自信がなくすことも多いが、兄さんと話していると前を向けるよ」 「潤……僕の父の記憶が役に立っているのなら、嬉しいよ」  亡くなったお父さん。  お父さんが出来なかったこと、したかったこと、僕は芽生くんにしてあげたい。  宗吾さんは夕食の時間になっても戻ってこなかった。  今日は休日出勤だから夕方に戻れると言っていたが、連絡一つなかった。  きっと何かトラブルが起きてしまい、今も奔走しているのだろう。  僕も現場を受け持つ立場だから、理解できる。  まず一刻も早く事態を収拾せねばならないから、家族や恋人への連絡が後回しになってしまう。   宗吾さん、どうか頑張って下さい。  心の中でエールを送った。  そのまま夜になってしまった。  宗吾さんはまだ帰ってこない。  事態の収拾のあと、付き合いで……なのだろうか。 「兄さん、まだ寝ないのか。明日は仕事だろう?」 「うん、そろそろ眠るよ」 「宗吾さん、まだ帰ってないのか」 「うん、どんどん多忙になって……」 「そうだったのか。兄さんがいるから頑張れるんだな」 「潤……ありがとう」 「兄さんはスターだよ」 「え?」 「宗吾さんの希望の星だ」 「そんな」 「へへっ、おやすみ。今日は泊めてくれてありがとう」  僕が宗吾さんの星になれている?  潤から贈られた言葉は、僕の寂しい心を温めてくれた。  潤たちが眠った後、急に広樹兄さんと話したくなって、電話をかけた。 「もしもし?」 「瑞樹か。うれしいな。電話もらえるなんて」 「兄さんってば、僕はいつだって兄さんが大好きだよ」 「おぉ? 今日は最初から飛ばすな。どうした? 何かあったのか」  ドキッとした。  僕の寂しい心がお見通しなのか。  やっぱり、すごい。 「ん……最近、宗吾さんの帰りがずっと遅くて……今日も休日出勤で夕方帰れると言っていたのに……まだ連絡もないんだ」  兄さんにだけ吐く弱音。  こんな女々しいことを言うのは、どうかと思うが……  広樹兄さんには、なんでも相談したくなる。 「そうか、宗吾は相変わらず仕事が忙しいんだな。どんどん責任を負う世代だから仕方無いが……あいつも一刻も早く瑞樹に会いたくてたまらないだろうな」 「そうかな?」 「そうに決まってるさ。瑞樹、あのさ」 「何?」 「お前も、いつも大人しくしてなくていいんだぞ。たまにはお前からビューンと迎えにいくのもいいんじゃないか」 「え? ビューン?」 「会いたいなら会いに行け。時間がないなら、少しでも作るんだ」  広樹兄さんの言葉は、目から鱗だった。  僕からアクションを起こしてもいい。    そのことに気付けた。 「ありがとう。僕がすべきことが見えたよ」

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