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マイ・リトル・スター 12
兄さんが、俺の背後をヒョイと覗き込んだ。
「なんです?」
「なんだ、今日は瑞樹はいないのか」
「いないから来たんですよ。母さんから聞いてなかったのですか」
「……風呂に入っていた。帰宅後すぐに、ちゃたの散歩に行って泥だらけだったからな」
「えぇ!」
兄さんが犬の散歩で、どろんこに?
ってか、犬の散歩して風呂に入って、まだこの時間?
まさかの定時上がりか。
あからさまに驚くと、怪訝な顔をされた。
「何か文句でも?」
「いや、その恰好といい、変わったなぁと」
「コホン、若返った言え」
「高圧的だな」
「どうとでも」
兄さんが銀縁の眼鏡の奥で、目を細めた。
年の離れた堅物の兄と、こんなにフランクに話せる日が来るなんて。
やっぱり全部、瑞樹のお陰だ。
瑞樹を介すると、空気が爽やかになる。
晴れ渡る!
「どうだ? 久しぶりに一杯飲むか」
兄さんが冷蔵庫にビールを取りに行こうとしたので、慌てて制した。
「今日は瑞樹を迎えに行きたいので、飲めないんですよ」
「そうか、そうだな。その方がいい。最近は……男女問わず夜間は物騒だ」
「……ですよね」
瑞樹に降りかかった災難は、兄さんは知らないはずだ。
だが勘のいい人だから、何かを察しているのかもしれない。
もちろん詮索するような人でないのも知っている。
あの過去を知るのは、もう限られた人だけでいい。
瑞樹はどんどん強くなっている。
過去を何度も振り返る必要はない。
夕食は母の揚げたてコロッケに、美智さんお手製のサラダやスープ。
華やかで盛り沢山の食卓に、舌鼓を打った。
「おばーちゃん、おかわり!」
「芽生は、よく食べるわね」
「ボク、早く大きくなりたいもん!」
「まぁ、どうして?」
「えへへ、おにいちゃんのキシさんになるからだよ」
「そうだったわね」
それは芽生が小さい頃に抱いた、可愛らしい夢だ。
もうすぐ10歳になるが、まだしっかり持っているのか。
芽生は将来頼もしい男になりそうだな。
それが嬉しくて、笑顔が弾ける。
「宗吾、お前、いい顔をするようになったな」
「ん? かっこ良くなりましたか」
「あぁ、以前は浮ついてチャラい面もあったが、精悍な男になった」
……以前は浮ついてチャラかった。
あぁぁ、痛いところ突かれた。
そうなんだ。
大手広告代理店に入社して、いい気になっていた。派手なことやブランドにばかりに目がいって、大切な「心《ハート》」を見落とす日々だった。
玲子に離婚届を突きつけられ、目が覚めた。
突然、芽生と暮らすようになり、分からないことだらけで、ボロボロだった。見栄を張って知ったかぶりをして、芽生の風邪を悪化させたり、弁当も腐らせそうになったことも……
幼稚園の先生に「この子の命を預かっているのは、お父さん、あなたですよ」と言われ目が覚めた。そこからはなりふり構わず、何でも周囲のお母さんたちに聞いて教えてもらった。
「いや、お前だけじゃないよ。私もそうだった。お高くとまって……堅物人間で、美智を悲しませてばかりで」
二人で辛気臭そうにしていると、母さんに背中を叩かれた。
「二人ともちょっと気晴らししてらっしゃい」
「今から?」
「憲吾、あなた、宗吾に見せたいものがあるんじゃないの?」
「あ、そうでした。宗吾、実は車を買い替えたのだ」
「へぇ、また高級外車ですか」
「違うんだ。どうだ? 今から私とドライブしないか」
「え? いいんですか」
「あぁ、少し外の空気を吸おう」
芽生は今日はおばあちゃんっ子になっていた。
「パパ、おばあちゃんちにおとまりしたくなっちゃった」
「え? 大丈夫なのか」
「うん、おばあちゃんとつもる話があるんだ」
「なんだか年寄りくさいな」
「まぁ、宗吾、失礼ね」
「だからお兄ちゃんのこと、よろしくおねがいします」
「よし、任せておけ」
芽生はおばあちゃん子だから、たまにはこういう時間も必要なのかもしれない。それに彩芽ちゃんも芽生と遊びたいらしく、ずっと離れないし。
子供の成長には、いろんな人と接する経験も大切だ。
「え? これが……兄さんの新しい車なんですか」
「そうだが、何か文句でも」
「これってミニバンですよね? 国産の」
「そうだ、7人も乗れるし、犬も乗れる。今の等身大の私だよ」
重厚でラグジュアリーな車に乗っていた兄さんが、こんな可愛いフォルムの車を運転するなんて意外だった。だが、そんな兄さんに親しみを抱いた。
「兄さん、これアウトドアにいいですね。キャンプにもいいな」
「そうだろう。宗吾も運転していいぞ。ちゃんと保険に入っているから必要な時は貸してやろう」
「え?」
「こんな車が瑞樹には似合うから」
それは空の青、青い車だった。
「確かに、俺の車は黒いスポーツカーで、チャラいからなぁ」
「ははっ、宗吾もそろそろ買い替えたらどうだ?」
「そうですね。その時はこんな感じの車がいいな」
「だろう」
兄さんの運転で、夜の街を走った。
こんな風に兄とドライブするのはいつぶりだろう?
思いつくままに、思いついたことを話した。
母さんの最近の様子や、父さんの法事のこと。
お互いの家族のこと。
今なら何でも話せる。
気兼ねなく――
「もう少し走るか。瑞樹はどこにいるんだ?」
「渋谷に行くと」
「そっち方面に行くか」
そこで電話が鳴った。
「もしもし?」
「宗吾さんですか。菅野です」
「おぉ、菅野じゃねーか。どうした?」
「実は今、瑞樹ちゃんと飲んでます」
「へ? 今日は瑞樹は小学校の同級生と飲むって言ってたぞ?」
「それが、いろいろ事情があって……」
なんとなく菅野の口調から察した。
「サンキュ! 瑞樹をガードしてくれてありがとうな」
「あ……いや、そんな。それより木下が潰れそうなので、迎えにきていただけませんか」
「アイツ やっぱり潰れたか」
「牛乳党だそうです」
「はは! 行くよ。どこに行けばいい?」
「BARミモザです。東銀座の」
「あそこか! 瑞樹は安心安全な場所にいるんだな」
「はい、バッチリです。瑞樹ちゃん、今日すごく可愛いですよ。明るく笑って楽しそうですよ」
「そうか、良かった」
「はい、良かったですね」
「あと20分で到着する」
「じゃあテーラーの前に出ています。蓮さんに伝えます。実は蓮さんが宗吾さんに電話するようにと」
「なるほど、彼はいい男だな」
「ですね」
「菅野もいい男だ」
「ありがとうございます!」
菅野も俺も、瑞樹が大事だから、考えることは一緒だ。
瑞樹が待っている。
きっと俺の助けを必要としている。
それが伝わってきた。
「兄さん、瑞樹を迎えに行こう」
「あぁ、駆けつけよう。私たちはレスキュー隊だ」
「兄さんがそんな台詞」
「大切な人がいると、フットワークが軽くなるものだな」
愛しい君の元へ駆けつけるよ。
俺たちはみんな君が大好きだから。
遠慮せず、このハートフルな愛を受け取ってくれ!
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