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二月、家族の時間 3
辺りはもう真っ暗だ。
また一段と寒くなったせいか、木枯らしが吹くと寒さが一層身に染みた。
「うわっ、風が冷たいね」
「うん、冷たいね」
芽生くんは、小さな手で頬を包んでいた。
そのあどけない仕草が可愛くて、自然と笑顔になれた。
10歳になって少しずつ大人びた表情を見せるようになったが、その仕草と素直な笑顔は小さい時と変わらないね。
「すごーく寒いけど、一緒だとなんかうれしいね」
「うん、僕もだよ」
僕はこの都会を吹き抜けていく乾いた北風が、ずっと苦手だった。
温かい家が恋しかった。
誰かが待っている家が羨ましかった。
ひとりぼっちは苦手だった。
だから一人で上京した時、駅から寮までの足取りはいつも重かった。
でも芽生くんと一緒にいると、全然違う。
「一緒に帰ろう」
あの時はもう二度とやってこないと絶望した言葉を交わし合える人がいるって、すごいこと。
「お兄ちゃん、あとひと頑張りだよ」
「あ、もうマンションが見えてきたよ」
「お兄ちゃん、早く早く!」
「うん!」
真っ暗な部屋を開けるのも怖くない。
「ただいま-」
「ただいま」
返事はないが「ただいま」と声を揃えられる相手がいる。
以前の僕は冷たい夜風に折れそうだった。心の中にも風が吹き荒れるようで寒かった。そのことに少しずつ慣れていくしかないと諦めていた。だから……宗吾さんと芽生くんと出逢うまで、心の底からの温もりを求める気持ちは、長い間しまい込んでいた。
一馬は一時的には温めてくれても、すぐに消えてしまう温もりだった。一馬が頻繁に実家に帰る度に、それを痛感してしまった。
でも今は違う。
部屋が暗ければ、この手で明かりを灯せばいい。
部屋が寒ければ、僕たちの手で暖を取ればいい。
「あぁ寒かったね。お兄ちゃん、暖房いれるね」
「ありがとう。僕は洗濯物を取り込むよ」
「手伝うよ」
「助かるよ」
何気ない日常がまた広がっていく。
暗かった部屋は明るく輝き、冷え切った部屋はみるみるうちに暖まっていく。
幸せだ。
こんな瞬間にも、僕は幸せを感じている。
****
俺は家族の元を離れ、ひとり出張で地方へ来ている。
打ち合わせが終わった夜、クライアントから「スナックに行こうよ。いい子がいるんだよ」と誘われたが、笑顔で断った。
「すみません、今日はゆっくり休ませてもらいます」
以前の俺なら断りきれず、つい付き合ってしまっただろうな。
いや、自分から誘って前のめりに飲んでいたかもしれないぞ。
けれど、今は断る理由がはっきりしている。
瑞樹の声が聞きたい。
芽生の声が聞きたい。
遠く離れていても、家族の温もりを感じたい。
こんな風に考えるようなったのは、瑞樹の影響だ。
瑞樹は人との距離感を大切する気配りの細やかな人間だ。そんな瑞樹と過ごしているうちに、無理に合わせたり、上辺だけで付き合うよりも、自分を大切にすることの大切さを学んだ。
仕事は最後まできちんとこなした。クライアントとのコミュニケーションもしっかり取れている。だからこの寒い中、夜の繁華街まで付き合う必要はないよな。
クライアントを見送ると、後ろから声がした。
「滝沢さん、ありがとうございます」
「ん?」
同行している後輩がほっとした表情で胸を撫で下ろしていた。
「今日はお疲れさん。気を張って疲れただろう」
「ありがとうございます。実はもうキャパオーバーで……滝沢さんはてっきり夜もイケイケなのかと思っていたのに違うんですね」
「イケイケ? ははっ、あぁ、もう違う。俺も疲れたから、お互いゆっくり休もうぜ」
後輩と別れて駅に向かう途中、ふと視界の端に高齢の男性が重そうな荷物を引きずるようにしているのが見えた。
だから自然と足を止めた。
「あの、荷物を運ぶのお手伝いしましょうか」
一瞬驚いた顔をされたが、笑顔が返ってきた。
荷物を持ち上げた瞬間、ふとその老人の横顔が目に入った。
どこか、亡き父によく似ているな。
父が亡くなってどれくらい経つだろう?
父はもともと俺とは性格が真逆で取っつき難く、忙しさにかまけて大学で一人暮らしを初めてから、ほとんど実家には近寄らなかった。だからゆっくり話す間もなく、あの世にいってしまった時は流石に後悔したよ。
「世の中まだまだ捨てたもんじゃないね。君のような人がいるなんて」
「いえ、当たり前のことをしただけです。困っている人がいたら迷わず助けなさいと……父から教わりました」
「素晴らしい教えだな。ありがとう。達者でな」
老人の弾んだ声に、心が温かくなるのを感じた。
ありがとう。
この言葉が、こんなにも胸にしみるなんて。
まるで天国の父から声をかけてもらえたようだ。
再び歩きながら思った。
瑞樹の優しさに触れ、俺は変われたんだな。
こんな風に父の教えを自然と思い出せ、実行できるなんて。
家族のあたたかさと、誰かに手を差し伸べることの大切さを、改めて教えてくれたのが瑞樹だ。
以前の俺だったら気づかずに通り過ぎてしまっただろう。
瑞樹と一緒に暮らすうちに、人の小さな変化や困りごとに目を向けられるようになったんだ。
きめ細やかさ、思いやり、それは全部瑞樹がくれたものだ。
俺の瑞樹……
夜風は冷たかったが、心はポカポカだ。
空を見上げると、星が瞬いていた。
仲良く並ぶ星は、俺の家族、瑞樹と芽生だ。
瑞樹は今頃、芽生と夜ごはんを食べている頃だろうか。電話をかけるのはまだ少し早いかもしれないが、ホテルに着いたら電話越しに「ただいま」と伝えたい。
遠く離れていても、君たちの傍で心を休ませたい。
だから電話越しでも「ただいま」と伝えるよ。
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