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春風にのせて 1

 新学年を迎えた四月、芽生くんは五年生になった。 「芽生くん、そろそろ登校の時間だよ」 「わっ、急がないと」 「ちょっと待って、ここ、寝癖が」 「へへっ」  笑った顔も宗吾さんにそっくりで、僕もつられて笑顔になるよ。 「あれ? お兄ちゃんも、ここはねてるよ」 「え?」 「えへへ。ボクと同じとこ」 「わっ」  芽生くんの手がすっと伸びて、僕の髪に触れる。  あっ、また背が伸びたかも。  今、何センチかな?  健康診断の結果が楽しみだ。 「あーあ……」 「どうしたの?」 「ううん、父さん、お兄ちゃん、行ってきます! もう流石に一人で帰れるから、放課後スクールの迎えは大丈夫だよ」 「あ、うん、分かった」  ランドセルを背負って歩き出す足取りは、いつもより少し重く、進級への期待と不安が混ざっているように感じた。  僕はリビングの窓を開けて、マンションのベランダから芽生くんを見送った。  芽生くんは上を見上げて僕に気付くと、今度は笑顔でブンブンと手を振ってくれた。  春風のように爽やかな笑顔だった。  楽しんでおいで、今日という1日を――  そこに宗吾さんがコーヒーの入ったマグカップを持ちながらやってきた。 「芽生は元気よく行ったか」 「はい、出会った時を思うと、背も伸びて逞しくなりましたね」 「瑞樹のおかげだよ、いつもありがとう」  宗吾さんが僕の肩を引き寄せて、額に軽く唇を落とした。  腰を深く抱かれ、今度は唇を重ねられた。 「宗吾さん……もうっ、朝からそんな……」 「朝だから、いいんだろ」  僕は少し頬を染めながらも、宗吾さんの腕の中で甘い吐息を吐いた。  イベント会場から直帰したので、今日はいつもより早く帰宅できた。このまま芽生くんを迎えに行きたい衝動に駆られたが、ぐっと我慢した。  芽生くんは、もう5年生。    少しずつ独り立ちしていくのだから、過保護になりすぎてはいけない。  でも昨日の夜「クラス替えが不安だよ」と呟いたのが気になるよ。  玄関のチャイムが鳴ったので、確認すると宗吾さんだった。 「悪い、手が塞がっていて鍵を出せなくて」 「ケーキですか」 「進級祝いしたくて急いで帰ってきた。ステーキ弁当も買ってきたぞ」 「流石です。当日、家族でお祝いできるなんて嬉しいですね」    宗吾さんと芽生くんの帰りを今か今かと待ち侘びていると、ようやく帰ってきた。 「ただいま……」  元気のない声だった。  どうしたのだろう? 「おかえり、芽生くん」  僕は優しく声をかけ、玄関に出迎えた。  クラス替えで何かあったのかな? 「クラス替え、どうだった?」 「……うーん」  芽生くんはは靴を脱ぎながら少し口を尖らせた。 「……仲のいい友達と別のクラスになっちゃったんだ……」 「そっか、それは寂しいね」  僕はそっと芽生の背中を撫でてあげた。 「でも、新しい出会いもあるかもしれないよ?」 「うーん、どうかな」  芽生くんは曖昧な表情をして、リビングのソファにどさっと座った。  新しいクラスで気を遣ったのか、とても疲れた顔だった。  励ましてあげたい、こんな時こそ……  僕はふと、キッチンのテーブルの上に目を向けた。  そこには、持ち帰った春の花を束ねた小さなブーケがある。  芽生くんの進級祝いにしたくて、用意したものだ。 「芽生くん、進級おめでとう!」 「わぁ、ありがとう。あれ? これはなんていう名前のお花? 初めて見るお花ばかりだね」  僕が作ったのは珍しい花を作った春のブーケだった。  春風の優しさを感じる柔らかな色合い。  淡いピンク・クリーム・グリーン・ラベンダー色でまとめたものだった。 「この細かくふんわりとした白いのはレースフラワーという名前で、春風に乗るように軽やかだから、出会いの偶然をイメージしたんだ」 「わぁ、すごい。じゃあこれは? 星の形をしているのは?」 「これはクレマチスという名前で、旅立ちと新しい出会いを象徴するお花だよ。そしてこのライラック色はヒヤシンス」 「いい香りだね」 「うん、これはスポーツや遊びという面白い花言葉があるんだ」 「わぁ、なんだかワクワクしていた。あとこのピンクのは?」 「これはアネモネで、君に出会えてよかったという意味だよ」  新しい出会いがどんなに希望の満ちあふれているかが、伝わるといいな。 「実は、このブーケには僕がつけた名前があって……」 「なんて名前?」 「『春風が運んできた出会い』だよ」  芽生くんは不思議そうにブーケを見つめた。 「春風……?」 「うん。新しい季節が来る度に、いろんなものが変わっていく。でも、だからこそ新しい出会いも生まれる。今日は今まで芽生くんが見たことがないお花を使ったのは、そんな意味を込めたかったからなんだ」  芽生くんしばらく花を見つめていたが、やがて小さく笑った。 「新しい出会いってワクワクするものなんだね。お兄ちゃんの言う通りだよ」  そこに宗吾さんがヌッと現れて、芽生くんの頭をくしゃっと撫でた。 「芽生なら、すぐにクラスに馴染めるさ、新しい友達もできるさ!」 「ほんとにそう思う?」 「ああ、芽生は俺と瑞樹の子だから自信を持っていいぞ」 「うん!」  芽生くんは少し照れたように笑いながら、花束をふわっと抱きしめた。 「じゃあ、僕もこの花のように新しい出会いを楽しむよ。春風みたいになって」  僕は芽生くんの明るい笑顔に胸を撫で下ろした。  それから宗吾さんと視線を交わした。 「宗吾さん、ありがとうございます」 「ん? 何が?」 「……いつも、僕たちをまとめてくれて」 「そりゃあ、家族だからな」 「父さん、お兄ちゃん、励ましてくれてありがとう。ボクには相談できる家族がいてよかったよ」  芽生くんが僕と宗吾さんの手を取って、ギュッと握りしめてくれた。  家族の心がギュッと繋がっていく。  きっとこの春も、たくさんの優しい時間が紡がれていくだろう。  そんな予感に満ちていく。

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