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春風にのせて 2

「瑞樹、もう起きるのか」 「はい、今日は大学の壇上花の生け込みがあるので」 「あ、入学式か。そうか、だからこんなに早く家を出るのか」 「はい、あと若手社員の指導もあるので」 「へぇ、瑞樹もすっかり先輩だな」 「いえ、そんな」  思い返せば僕も30歳を過ぎ、指導する立場になった。もちろんまだまだ学ぶことも多いが、後輩に教える機会も増えてきた。  気恥ずかしいが、僕が伝えられることはしっかり伝えていきたい。  先輩方からそうしていただいたように。  早朝、渋谷にある大学の講堂に到着すると、昨年入社したばかりの後輩がせっせっと花材を運び込んでいた。  入学式の壇上花は入学式前日ではなく当日の朝作るのが、加々美花壇のポリシーだ。これにより花が新鮮で美しい状態を保ち、式の際に最良の印象を与えることが出来るからだ。  さぁ、今から開場の時刻までに、一気に仕上げていこう! 「あ、葉山先輩、おはようございます」 「おはよう、今日はよろしく」 「はい!」  僕は早速作業に取りかかった。  壇上に向けて、桜の枝を一つ一つ慎重に手に取って枝振りを確認し、剪定していく。  開場内では、椅子を並べたり、式の準備が着々と進む中、僕たちは花を生けるという特別な役割を担っていることに気が引き締まった。  何千人もの人の目に映る花だ。  失敗は許されない。  目を閉じて心を落ち着かせるために、ふぅっと息を吐いた。 「桜は大胆に、でも繊細に」  心の中で先輩から受け継いだ言葉を繰り返し、桜の枝の配置を決めていこう。  心がけるのは――  自然に花の命を引き出すように、穏やかでありながら確実に。  そんな僕の様子を、後輩が少し離れた場所で、おどおどした様子で見ていた。 「どうした? 手伝って欲しいのに」 「え、えっと、俺は何をどうしていいのか……すみません」  彼の目には不安が滲んでいた。おそらく自分に自信が持てないのだろう。 「最初は誰だってそうなってしまうものだよ。だが焦らずゆっくりでいいんだ。大切なのは花と向き合う丁寧な気持ちだよ」  僕の言葉に彼は少しだけ安堵したようで、深呼吸をした。 「でも上手く出来るか……やはり不安です」  僕はそんな彼を目を細めて見つめた。  彼が感じている不安と迷いを、僕は知っている。 「分かるよ。君が今感じているその『不安』、それが実はとても大切なんだ。僕だって最初は何もかもが上手くいかなかった。でも、諦めずに続けていくうちに、少しずつ形になっていったんだ」  僕は彼の前に立ち、花瓶に桜の枝をゆっくりと差し込んで、軽く調整してみせた。 「さぁ、続きは君のペースで進めてごらん。僕がフォローするから」 「うわぁ、圧倒されます。先輩の手つきは繊細で美しいのに、とても力強くて」  力強い。  それは嬉しい言葉だった。  僕は……ずっと抱えていた不安や迷いから抜け出た場所に到達できたのだろうか。 「大丈夫だ。君にもきっと出来るよ」  後輩は僕の言葉を噛みしめ、頷いた。 「ありがとうございます。葉山先輩みたいになれるよう努力したいです」  少しだけ自信を取り戻したように見えた。 「……僕の真似はしなくていいよ、君は君らしく、君の花を咲かせて欲しいのだから」  後輩は少し不安そうだったが、僕の言葉に後押しされるようにして、枝を受け取った。 「でも……いや、やってみます。あぁ……これじゃ駄目だ」 「あ、ここは、こうしたらどうかな?」 「なるほど」  僕は出しゃばりすぎず、やり方を少しずつ教えていった。 「いいね。この部分の枝は自然に、でも力強さを出すのはどうだろう? ここは少し角度をつけて」  彼が自信を持てるように導くことを心がけた。すると後輩は何か吹っ切れたように力強く枝を差し込んだ。 「こんな感じですか」 「うん、素晴らしいよ。君の桜、きっと素敵に咲くよ」  最後は僕が仕上げていく。  桜の枝を手に取ると、気が引き締まる。  かつての僕は目立つことが嫌いで、控えめに生きてきた。  けれど今は違う。  迷いなく枝を整える動作には、確かな自信と覚悟が宿っていた。 「この花でこの場の空気を整え、心を動かしたい」  誰に聞かせるでもなく、心の中でそう誓った。  桜の枝を慎重に手に取り、その重さと命の息吹を感じながら、じっくりと配置を決めていくよ。  花の向きや枝の角度一つ一つに思いを込めて。  僕は花を生ける時、ただ花を飾るのではなく、その花に込めるメッセージを大切にしている。  今日は新入生にエールを。    桜は冬の寒さを乗り越え、春の暖かな日差しの下で美しい花を咲かせる。  新入生も、これから多くの壁にぶつかるだろう。だが、その壁を乗り越えた先には必ず自分の花が咲くと信じて欲しい。  各々の枝が、まるで学生たちのそれぞれの未来のように伸びやかで、力強く感じられた。 「この桜が、新入生の未来を照らす光になりますように」    そっと桜に手を添えて、静かに祈った。  これが僕に出来ること。  どうか未来への期待と不安を受け入れ、前向きに歩んでいけますように。  恐れずに。  どうか変化を恐れないで――

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