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春風にのせて 5

 四月の軽井沢は、冬の余韻をほのかに残しながら、春の気配が静かに広がり始める季節だ。  といって夜は、まだまだ寒い。 「今日も冷えてきたな」  オレはリビングのストーブに火を付けて、壁に掛けられた写真を見つめた。  オレに抱っこされて、嬉そうに葉っぱを持っているいっくんの写真だ。  出逢った頃は、まだ赤ちゃんのように幼い男の子だった。  そんな、いっくんが明日から小学生だなんて感慨深い。  重たいランドセルを背負って小学校の通うのか。    想像するだけでうるうるするな。  ストーブの上には、菫さんが用意してくれたホーローのポットが載せられて、少しずつ湯気を立てはじめていた。  部屋がぬくぬくと暖まってくると、心も解れてきた。  カーテンを閉めながら窓の外を見ると、まだ少し残る雪の欠片が白く光っていて、部屋のあたたかさを際立たせていた。  今は春と冬が同居しているんだな。  以前のオレだったらこん叙情的なことは思いつかない。  菫と出会って、いっくんの父親となり、槙も生まれて、1日1日を大切にするようになり、季節の移ろいと子供の成長を見守るようになった。  ふと……いっくんの心にも春と冬が同居するように、少しの不安と沢山の期待が灯っているような気がした。  急に心配になりいっくんの姿を探した。  見渡すと、いっくんは部屋の片隅でブランケットに包まりながら、兄さんからもらった植物図鑑を開いていた。  だが目は文字を追っていない。  オレはいっくんの隣に腰を下ろし、そっと図鑑のページを覗き込んだ。 「どうした? これは雪柳だよ。保育園に行く道で見かけたな」  いっくんはこくりとうなずいたが、ページをめくる手は止まったままだった。目線は図鑑に落としたまま、不安そうな顔をしている。  こんな時は……  兄さんのように、優しくいっくんに寄り添ってやりたい。 「どうした? 何でも話していいんだぞ。いっくんにはパパがいるんだから」 「……あのね……パパ」 「うん?」 「がっこうって……こわくない?」  か細い声だった。  オレは何よりも先にいっくんを抱きしめた。 「新しいことって誰だって最初は不安だよな。でもいっくんなら大丈夫だ。パパもママもずっと応援しているよ」  いっくんはオレの言葉に少し安心したような顔をしたが、まだ不安は消えないようだった。  こんな時は……兄さんのように相手の立場になって、相手の心に寄り添うことが大事なんだよな。  オレが小学校に上がるときはどうだった?  そうだ、兄さんたちに守られて我が儘ばかりのガキ大将だったくせに、臆病だったことを思い出した。 「パパも、小さい頃はいっくんと同じように、ワクワクドキドキしていたが、同時に新しい世界に進むのが怖かったんだ。だけど通い出したら少しずつ友達が出来て、楽しいことが一杯あったよ。いっくんにもきっと楽しいことが見つかるはずだよ」  オレが新しい環境でどんなに不安だったかを、丁寧に伝えた。  少しでもいっくんに勇気を与えたい一心で。 「そっか……パパもおなじだったんだね。いっくんね、しらない人いっぱいいるし、ママとパパもいないし、せんせいがこわい人だったらどうしようって、ぐすっ」  心配の種が言葉となって、ぽろぽろと零れ出す。  オレはいっくんの言葉に耳を傾けながら、図鑑のページをそっとめくった。  そこに現れたのは、いっくんが大好きな「クローバー」のページだった。 「これは何の葉っぱだったか分かるか」 「これはクローバーだよ。よつばもあってね、みつけるとしあわせになるよって、めいくんがいってたよ」 「そうだな。四つ葉のクローバーは見つけると幸せになれるという言い伝えがあるんだ。たとえば大好きな家族が出来たり、大好きな葉っぱが茂る庭を見つけたり、優しい先生に出会えたり、楽しい友達が出来たり……」  いっくんはオレを見上げた。  その目は、さっきよりずっと明るく輝いていた。 「じゃあ、いっくん、あしたよつばのクローバーもっていく。でも……いまからみつけられるかな? もうおそとくらいし…どうちよう」  オレは、いっくんの髪を優しく撫でてやった。 「いっくんが四つ葉のクローバーなんだよ」 「えっ? どういうことなの?」 「いっくんの存在が誰かの四つ葉のクローバーになれるってことさ。なぜならいっくんと出会えて、パパはすごく幸せだから」  いっくんこそ、オレの幸せ、オレの四つ葉のクローバだ。  いっくんを思いっきり抱きしめると、いっくんもキュッとしがみついてくれた。 「パパ、いっくん、げんきになったよー パパ、だいすき!」

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