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春色旅行 2
四月の終わり。
カーテンの隙間から差し込む淡い光が、寝室をゆっくりと染めていく。
僕はそっと布団を抜け出してリビングに行き、スーツケースのそばにしゃがみ込んだ。
昨日、芽生くんと一緒に準備したが、もう一度だけ中身を確認しておこう。
芽生くんの着替え、お気に入りのタオル、羊のぬいぐるみ、絆創膏、日焼け止め。
「忘れ物はないな。じゃあ次は」
そのままキッチンに向かった。
タイマーをかけておいたので、炊飯器には、ふっくらとごはんが炊き上がっている。
ほかほかの白い湯気に包まれながら、僕は心を込めておにぎりを握り出した。
――ひとつは、芽生くんの好きなおかか。
「おいしい!」と言ってくれる芽生くんの可愛らしい顔が浮かんで、つい微笑んでしまう。鰹節に胡麻と醤油と砂糖を足して、ご飯に混ぜ込むのが芽生くんのお気に入りだ。
――次は、宗吾さんの好きな昆布。
宗吾さんが大阪出張で買ってきてから我が家の定番になった、お気に入りの昆布だ。おつまみに出すと「瑞樹、こういう味ってほっこりして落ち着くよな」と、寛いだ笑顔を浮かべてくれる。僕はその笑顔がとても好きだ。
――そして最後は、僕の好きな鮭。
幼い頃からずっと好物で、母が握ってくれた味を今でも覚えている。あの日感じたぬくもりを、今は僕が大好きな人に手渡せるようになったので、何よりも嬉しい。
ひとつずつ丁寧に心を込めて握っていると、背後に柔らかな気配がした。
振り返ると、宗吾さんと芽生くんがパジャマ姿のまま眠そうな顔をしながら立っていた。
「瑞樹、朝から頑張っているな」
宗吾さんが優しく笑えば、芽生くんも「わぁ、おにぎりだ! おかかもある?」と目を輝かせながら、そばに寄ってくる。
僕は握ったばかりのおにぎりを、ふたりにそっと見せた。
「もちろんあるよ」
「やったぁ! お兄ちゃんありがとう」
僕の手で握ったおにぎりを、最初に食べてもらいたかった。
今日は、僕がふたりを招待する初めての家族旅行だ。
だからこそ、最初の一歩も、自分で用意したもので始めたかった。
****
目覚めると、炊き立てのご飯の匂いが寝室にも漂ってきた。
腹がぐぅと鳴ったので苦笑しながら起きると、瑞樹がいなかった。
廊下に出ると、子供部屋で寝ていた芽生と鉢合わせした。
「パパ、どうしたの?」
「芽生こそ、どうした? 早起きだな」
「えっとね、おいしそうな匂いがしたから起きちゃった」
「パパもさ」
キッチンを覗くとエプロンをつけた瑞樹が一人でキッチンに立って、おにぎりを握っていた。
その光景に、胸の奥がじんとあたたかくなった。
──こんな朝を迎えられるなんて――
出逢った頃は……
儚げで消えそうな君を守りたかった。
打ちのめされた君を支えたかった。
ただ、そばにいてほしかった。
そんな君が俺たちを旅行に招待し、俺たちのために早起きしておにぎりを握ってくれている。
「がんばってるな」
声をかけると、瑞樹は振り返り、少し照れたように笑ってくれた。
その笑顔を見た瞬間、芽生がぱぁっと顔を輝かせた。
「お兄ちゃんのおにぎり大好きだよ」
勢いよく駆け寄って、そのまま瑞樹にぎゅうっと抱きつく。
こういう所はまだまだ幼いな。
「わぁ、芽生くん」
瑞樹は少しよろめきながらも芽生を受け止め、背中をやさしく撫でてくれた。
俺は瑞樹の肩に、ポンっと手を置いた。
「ありがとう、旅行に招待してくれて、朝食まで君がリードしてくれるのって新鮮でいいな」
そう告げると、瑞樹の頬がほんのりと赤く染まった。
「そんな……僕がリードだなんて」
「かっこいいよ」
「あ、ありがとうございます」
「お兄ちゃん、このおにぎり、飛行機で食べたい」
「え? いいのかな?」
「大丈夫さ、おにぎりなら食べやすいし持ち込みOKさ」
「やったー ボク、早く支度するよ」
「俺も!」
旅行って特別だよな。
いつもと違うこと、沢山しようぜ!
****
「そろそろ出発の時間ですね」
時計を見ながら声をかけると、芽生くんは既にリュックを背負っていた。
「準備OKだよ」
「そうだ、いってきますの前に、玄関で写真撮ろうぜ!」
宗吾さんがスマホを取り出したので、三人で肩を寄せ合った。
パシャッ――
これは旅のはじまりの合図。
ドアを開けると春の光が眩しく、どこまでも幸せな道が続いているようだった。
「それじゃ……」
僕が小さく息を吸い込むと、芽生くんが手をぎゅっと握ってくれた。
そして芽生くんと僕を包み込むように、宗吾さんが肩を組んでくれた。
声を揃えて――
「いってきます!」
僕たちの声は、清々しく溶けていった。
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