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春色旅行 5
ホテルのエントランスを潜り抜けると、ふわりと甘い花の香りが迎えてくれた。
「あれ? お兄ちゃん、なんだか、いい香りがするよ」
「そうだね」
「これはなんの匂い?」
「バラの香りだよ」
「バラかぁ、なんだかイギリスのキシさんを思い出すよ」
「えっ?」
「ほら、前に話した夢の話」
「あぁ、なるほど」
ピカピカに磨かれたフローリングの床に優しいローズピンク色の絨毯。吹き抜けの天井から吊るされたシャンデリアが、太陽の光を集めキラキラと輝いている。
「いらっしゃいませ、Huis Bloemへようこそ」
ホテルの制服を身に纏った女性スタッフが、芽生くんに視線を合わせて微笑んでくれた。
「ご宿泊のお客様ですか」
「はい!」
「お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
「えっ、ボク?」
芽生くんが僕たちを助けを求めるように見上げたので、「芽生、任せたぞ」「芽生くん、お願い」と応対をお願いした。
「えっと……お父さんの名前が滝沢宗吾で、お兄ちゃんが葉山み…… えっと、つまり、僕たち三人で滝沢ファミリーです!」
芽生くんが元気いっぱいに答えると、スタッフの女性がニコッと微笑んでくれた。
滝沢ファミリー!
その言葉に、僕の幸せが集約されている気がした。
ありがとう、芽生くん。
「滝沢ファミリー様ですね。畏まりました。お部屋のキーをお持ちします」
すぐにカウンターから、客室の鍵を持ってきてくれた。
「お部屋までご案内いたします」
廊下から見える中庭には、カラフルなバラが咲いていた。
そして廊下にもバラの絵が何枚か飾られていた。
水彩画に描かれた景色は、まるでおとぎ話のようでうっとりした。
「ねぇ、お兄ちゃん。このバラ、お空に向かって元気に咲いているね」
「ほんとだ。まるで、芽生くんみたいにね」
その言葉に、芽生くんは明るく笑って、僕の手をギュッと握った。
部屋の窓を開けると、眼下にはローズガーデンが広がっていた。
白、ピンク、黄色、深紅、オレンジ、色鮮やかだ。
「うわぁ……! バラの虹みたいだよ」
芽生くんが目を輝かせると、宗吾さんも目を細めて頷いた。
「よし、荷物を置いたら庭に行ってみるか」
「はい!」
「やったぁ! お兄ちゃん、カメラ、忘れないでね」
僕が鞄から一眼レフを取り出しレンズを確認していると、芽生くんは待ちきれない様子で、一度脱いだ靴を履いて、そわそわしていた。
スイッチが入るとやる気に満ちるところが、宗吾さんにそっくりだ。
もう5年生だけど、この旅行中は子供らしく僕たちに沢山甘えて過ごして欲しいな。
いつも遅くまで放課後スクールで頑張っているから。
「行こう、俺の春の王子様!」
宗吾さんが、僕にスッと手を差し出してくる。
その凜々しい声に、思わず頬が火照ってしまう。
猛烈に照れ臭くなってしまう。
ずるい人だ。
宗吾さんはいつも僕の心をドキドキさせる人。
「そ、そんな言い方はここだけにして下さい」
「分かった! ここで王子様になってくれるんだな」
「え、そういう意味では」
「お兄ちゃん、大丈夫だよ。お兄ちゃんが王子様だっていうのは、ボクたちだけのヒミツだから」
「そうだそうだ! 秘密ってドキドキするよな」
「も、もうっ―― 行きますよ」
僕たちは肩を並べて、中庭に飛び出した。
「わぁ、バラがいっぱいだね」
春の風が、甘いローズの香りを運んでくる。
「芽生くん、こっち向いて」
「お兄ちゃん、いろんな色のバラがあるよ。まるでバラの虹みたいだね」
バラの虹だなんて――
芽生くんの言葉は魔法だ。
この旅が、芽生くんの心の宝箱になりますように――
そんな願いを込めて、僕は夢中でシャッターを切った。
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