1785 / 1863

春色旅行 6

 中庭に足を踏み入れた途端、ふわりと甘い香りが風に乗ってきた。  芽生くんが目を輝かせて駆け出したので、僕もまた走り出した。  色鮮やかな薔薇が咲き誇るガーデン。  ホワイト、ベビーピンク、アプリコット、そして深紅。  まだ春なのに、まるで初夏のように、薔薇は勢いよく咲いていた。  ここは、まるで生命の源のようだ。  芽生くんの言う通り、まるで薔薇の虹のようにも見える。  僕は自然とカメラを構え、両手を空に向けて広げ明るい笑顔を浮かべる芽生くんの姿を捉えると、夢中でシャッターを切った。  君の生き生きとした笑顔が大好きだよ。  芽生くんは花の名札を指さしながら、次々と読み上げていく。 「えっと、これはレディ・エマ・ハミルトン。こっちはスノーグースで、あっちはピエール・ドゥ・ロンサールかな?」 「うん、合ってるよ」  僕はひとつの株の前で足を止めた。  真っ白な薔薇の花びらがまるでベルベットの絨毯のようで、ため息が漏れた。 「これはよく手入れされているな」  花にそっと手を添えて呟くと、宗吾さんが僕の横顔を見ながら、くすりと笑う。 「すっかりお花の先生モードだな」 「え?」 「いや、今の顔って、なんかすっごく好きなものを見てる顔してたから」  僕は照れくさくなって俯いた。 「美しかったので……つい」 「知ってるか。君は薔薇よりも美しいよ」 「えっ、あの……僕はそんな……」  宗吾さんの声が、やわらかく続く。 「瑞樹、大好きだよ」  そばにいた芽生くんが背伸びをする。 「あー パパだけずるい。ボクもお兄ちゃんのこと大好きなのに。あっ、パパじゃなくてお父さんだ」 「いいんだよ、パパで。今は旅行中なんだからいっぱい甘えて」 「うん! えへへ」   芽生くんは、最近宗吾さんのことを「お父さん」と呼ぶようになっていた。 きっと周囲を意識してのことだろう。  だけど今は家族旅行中。  ここは東京から遠く離れた長崎だ。  そんなに人目を気にしなくていいんだよ。  いつも、がんばらなくていい。  リラックスして過ごしていいんだ。  振り返ると、芽生くんがじっと薔薇を見つめていた。 「どうしたの?」 「あのね、ボクもバラを育ててみたいな」  僕は少し驚いて、目の前の小さな体を見つめた。 「芽生くんが薔薇を?」 「うん、だって、お兄ちゃんが『これは手入れがよくされてるな』ってさっき言ってたでしょう? それがすごく素敵だったんだもん。ボクもこんなふうに大切に育ててみたいなって」  芽生くんの目はどこまでも真剣だった。 「そうだね……薔薇はちょっと手がかかるけど、その分、育て甲斐のある花だよ。最初は大変かもしれないけど、きっと今の芽生くんになら出来るよ」  僕が微笑むと、芽生くんは破顔した。 「うん! やりたい! 挑戦してみたいんだ」  その言葉には、決意が籠もっていた。  宗吾さんは、息子を応援する父の顔になっていた。 「芽生が薔薇を育てるの、楽しみにしてるよ。瑞樹に教えてもらいながら、少しずつやってみろ」 「うん! やったー」  芽生くんは両手を広げ、心からの笑顔を見せてくれた。 「じゃあ、せっかくだから、ここで薔薇の苗を買っていくか」 「え? いいの」 「旅の思い出を東京で育てるっていいアイデアだろ、なっ瑞樹」 「あ、確かに……素敵です」  僕たちは薔薇の苗を選ぶために、テーマパーク内の園芸店へと足を運んだ。  店の入り口には、色とりどりの薔薇の鉢が並べられており、どれも香り高く、華やかな色合いが目を引いた。 「わぁ、こんなにたくさん! いっぱいあって迷うよ~」  芽生くんは目を輝かせて、キョロキョロとあたりを見渡した。  そこに店員さんがやってきて、優しく声をかけてくれた。 「こんにちは、薔薇をお探しですか」  僕は少し考えてから答えた。    仕事柄の状態や種類には精通しているが、育て方のプロではない。  だから素直に聞くことにした。 「はい、この子が育てやすい品種を探しているのですが」  すると店員さんはにっこりと笑い、いくつかの品種を紹介してくれた。 「こちらの『日だまり』という品種は、クリームイエローの花が特徴です。育てやすく、初心者にもぴったりですよ」  店員さんが一鉢を持ち上げ、僕たちに見せてくれる。 「日だまり……」  その名前を復唱すると、心が温かくなるのを感じた。 「これは、いい名前だな」  宗吾さんも微笑みながら言う。 「芽生にぴったりだし、まるで俺たち家族の日だまりみたいだ」  芽生くんはその言葉を聞いて、顔をキラキラと輝かせた。 「これにする! このバラを頑張って育てる!」 「そうだね、これなら芽生くんにぴったりだし、お兄ちゃんも協力するから、しっかり育てていこう」  芽生くんは嬉しそうに頷き、手を伸ばして「日だまり」の鉢を受け取った。 「ありがとう、パパ、お兄ちゃん!」 「こちらこそ、芽生がそんなに喜んでくれて嬉しいよ」  宗吾さんが芽生くんの頭を優しく撫でると、嬉しそうな笑顔がこぼれた。  芽生くんが手にした小さな鉢は、東京へ宅配便で送ることになった。  薔薇はきっと芽生くんの手で、少しずつ成長していくのだろう。  芽生くんが一生懸命育てる姿を想像すると、胸が温かくなるよ。 「芽生くん、頑張って育てようね。」と僕が言うと、芽生くんは嬉しそうに「うん!」と答えてくれた。  明るい返事に心の中で静かな幸せを感じながら、次にどこに行こうか、みんなでワクワクしながらスケジュールを考え始めた。  宗吾さんがテーマパークの地図を広げ、「今日はもう夕食の時間だからいったん休憩だ。ついに明日は瑞樹のコンテスト応募作品の展示が見られるぞ。だから朝は真っ先にそこに行こう。その後はどこに行きたい?」 「ボク、観覧車に乗りたい」 「瑞樹は?」 「えっと」 「遠慮するなって」 「あ、はい……あの、僕は白薔薇のお城に行ってみたいです」  こんな風に、三人で次の予定を決めるのは楽しい時間だ。  どんな場所を訪れるか、どんな新しい経験が待っているのか、考えるだけで心が躍る。 「この旅はまだまだ続くよね」と芽生くんが興奮気味に聞いてきたので、僕と宗吾さんは大きく頷いた。 「もちろんだ」 「そうだよ。まだ始まったばかりだよ」  そうだ……  僕たちの旅は、まだまだ終わらない。  今日のように一瞬一瞬を大切にしていけば、素晴らしい思い出が増えていくだろう。  明日がくるのが楽しみだ。  僕に待ち遠しいという気持ちを教えてくれたのも、宗吾さんと芽生くんだ。

ともだちにシェアしよう!