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春色旅行 10
朝日に照らされた湯布院の街に、温泉の湯気があちこちから立ちのぼる。
山に囲まれた温泉地は、観光客が起き出す前のひととき、静寂に包まれる。
俺は、幼い頃からこの静けさが好きだった。
歴史ある旅館の帳場で前日の帳簿を片づけ、番茶を飲みながら地元の新聞を一面からめくっていく。
『春の花と暮らしフォトコンテスト』
その見出しが目に留まり、手が止まった。
そういえば、俺も投稿していたな。
息子と二人で風呂に入った時、湯気の中の小さな手があまりにも愛おしくて、思わず写真を撮った。その数日後、新聞でこのコンテストを知り、『湯気の中の幸せ』というタイトルで応募したんだった。
淡い期待を抱きながら、入賞作の一覧を見渡す。
……ない。
俺の写真は選ばれてはいなかった。
少し悔しいが、並んでいた作品はどれも優しさに満ちていて、思わず見入ってしまう。
どれも流石だな。
すると、ある写真にふと目が留まった。
都会のベランダに咲いたハナミズキ。
小さな手のひらが、そっと朝の光を受け止めている。
『小さな手のひらに、春を受け継いで』
この写真、タイトルも構図もいいな。
清らかで優しくて、まるでかつての恋人の眼差しのような美しさ。
これを撮ったのは、まさか……
投稿者の名前に目を凝らすと……
暮らしに咲く春色部門・入賞作
葉山 瑞樹
一瞬、時が止まってしまった。
新聞の紙面を、指先でそっとなぞってしまった。
見間違いじゃない。
確かに瑞樹の名前だ。
この写真を撮ったのは、お前だったのか。
……瑞樹。
心の中で呼びかけると、胸の奥にしまい込んでいたものがふわりとほどけていくようだった。
大学生の頃からずっと一緒にいた。
社会人になってからも同棲して、七年間共に過ごした恋人だった男。
けれど、俺が彼を捨てた。
故郷も、両親も、この若木旅館も、俺は捨てられなかったから。
あんな仕打ちをしたのに、瑞樹は一度だけこの湯布院に来てくれた。
宗吾さんという朗らかな男性と、芽生くんという利発な男の子と一緒に。
あの日再会した瑞樹は、春の光を全身にまとっていた。
その後連絡を取ることはなかったが(当然だ)
どうか、幸せでいてくれますように――
毎年春になる度に、そう願ってきた。
そして今、偶然にも瑞樹の『今』に触れることが出来た。
あの写真は、きっと、あの男の子を撮ったものだ。愛する人の何気ない瞬間を、瑞樹は丁寧に切り取っていた。
そこには寂しさなどなくて、ただ静かで穏やかな幸福だけがあった。
紙面から顔をあげ、深く息を吐いた。
ありがとう。
もう、本当に何も心配しなくていいんだな。
俺の願いは、ちゃんと届いていた。
「……よかった……」
誰にも聞こえない声で、そうつぶやいた。
誰にも聞こえない声で、つぶやいた。
入賞作の一覧の下に小さな記事があり、「読者が選ぶ大賞を決定! お気に入りの1枚を選んで投票を」と書かれていた。
QRコードの横には、紙面の番号を見て投票できるようになっていた。
俺は深呼吸をしてから、スマホを取り出した。
『小さな手のひらに、春を受け継いで』――No.12。
画面にそっと指を伸ばした。
迷いはなかった。
文句なしに瑞樹の作品が良かった。
「……俺の一票、届け」
投票ボタンを押すと画面に「投票ありがとうございます」の文字が出て、俺はそっと新聞を畳んだ。
瑞樹の写真には優しい思いが溢れ、幸せが満ちていた。
大切な人を想いながら切り取った瞬間だった。
今はもう交わることのないふたりの人生の静かな交差点だ。
そこにあるのは後悔ではなかった。
ただ、嬉しかった。
瑞樹が幸せそうで、よかった!
あの日願ったように、君の幸せをおこがましいがいつも願っている。
投票という形で、応援できてよかった。
帳場の片隅で、俺はひとり、深い安堵の息をついた。
新聞を棚に戻すと、番茶が冷めていることに気づいた。
立ちのぼる湯気はもう消えてしまっていたが、不思議と心の中はぽかぽかと温かかった。
すると扉の向こうから、妻の声が聞こえた。
「あなた、そろそろ時間よ」
「悪い、今行くよ」
俺はさっきの出来事をそっと胸の奥にしまった。
旅館の廊下を歩くと、朝日が射し込んで光の道のように見えた。
いつも通りの朝なのに、少し景色が違って見えた。
湯気の中の小さな手と、ハナミズキと小さな手
俺と瑞樹の写真はどこか似ていた。
俺たちは今、大切な人とのあたたかい時間を大切に生きているんだな。
それぞれ別の場所で、しっかりと根を張って。
さぁ、今日は満室だ。
今日もお客様の日常に、少しでもあたたかい時間が残せるように頑張ろう。
それが俺の選んだ生き方だ。
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