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春色旅行 12
雨が降り出しそうな静かな夜だった。
大沼の古い山小屋のテラスで、俺はゆっくりと北国の夜空を見上げている。
昔はこんな時、よく煙草を吸っていたな。
だが煙草はもう、とっくの昔にやめた。
大樹さんと澄子さんと暮らし始めた頃は、たまにベランダで吸っていたが、澄子さんが妊娠したのをきっかけに卒業した。みーくんが生まれてからは、煙草の代わりに牛乳とはちみつが大好きになったんだ。
ははっ、ハチミツ好きが高じて、ついには養蜂家にまでなっちまった。
大樹さんも、澄子さんも、みーくんも、なっくんも、俺が作ったはちみつを本当に喜んでくれていた。あの頃はみんながそばにいて、賑やかで、幸せで――。
……みーくん、元気にしているか。
長崎旅行を楽しんでいるだろうな。
今宵は、いつもよりさらに遠い場所にいるせいか、どうしようもなく会いたくなってしまった。
夜の風にシャツの裾が揺れ、雨の匂いが混じった瞬間、静かに電話が鳴った。
表示された名前に、胸が跳ね上がる。
みーくんだ!
「……もしもし」
受話器の向こうから届いた声は、明るかった。
嬉しい報告があった。
写真のコンテストで大賞をいただけて、副賞に旅行券をもらったので、それを使って帰省してくれるそうだ。
そして、嬉しい言葉も――
「くまさん、大好きです」
俺はもう……くしゃっと笑いながら、泣きそうだ。
あの日、手を伸ばせなかった後悔。
守れなかった、小さな背中。
その子が今、まっすぐ立って、家族の愛に包まれて、自分の言葉で「大好きです」と言ってくれる。
思わず部屋に駆け込み、大樹さんの一眼レフを胸に抱きしめた。
触れると、大樹さんの心に近づけるようだ。
大樹さん、今の……聞こえましたか。
みーくんが、「うん、帰るね」と甘えてくれましたよ。
「ありがとう。……本当にありがとうな、みーくん」
隣で、さっちゃんも泣きそうな顔で笑っていた。
俺の抱える罪悪感を、理解してくれてありがとう。
みーくんを想うこの気持ちを、さっちゃんも同じように感じてくれている。
それが、何より嬉しい。
「さっちゃん、また、楽しみができたな。可愛い息子の帰省だぞ!」
「本当に瑞樹が帰ってくるのね」
「あぁ、もてなす楽しみができたな」
****
ホテルの客室では、窓際の淡い色のランプが甘い雰囲気を醸し出していた。
芽生は隣のベッドルームで就寝中だ。
すでにぐっすり眠っているようで、そっと部屋を覗くと安定した寝息が聞こえてきた。
瑞樹はシャワーを浴びた後、白いバスローブを羽織って出てきた。
髪から滴る雫が、鎖骨を伝ってタオル地に吸い込まれていく。
「……宗吾さん」
くすぐったい気持ちの混じる甘い声だった。
「くまさんに、電話してよかったな」
平静を装っているつもりだが、胸の奥がじんわり熱くなってくる。
「はい。でも……面と向かって『大好き』って言うの、少し照れくさかったです」
「瑞樹は恥ずかしがり屋だからな。でも、ちゃんと伝えられたじゃないか」
「いつも甘えてばかりなので……どうしても、ちゃんと伝えたくて」
「偉かったな」
俺はそっと瑞樹を抱き寄せ、ソファに座らせた。
そのままバスローブの襟元から指をすべらせ、瑞樹の上半身へと触れていく。
瑞樹は目を伏せ、体を預けてくれた。
「……俺にも、言って欲しい」
「……っ」
濡れた髪に、そっと唇を寄せる。
ひとりで立ち上がれるようになった今だからこそ、甘えたい時は、心から甘えて欲しくて。
瑞樹のまつげが震え、頬がほんのり染まり出す。
うなずくように、視線を伏せて――
「宗吾さんを……愛しています」
「俺も愛しているよ。今の君が……すごく、愛おしい」
そう言って、ゆっくりと身を寄せた。
慣れたはずの距離感に瑞樹は目を伏せ、長い睫毛を震わせた。
頬がどんどん上気していく。
「……宗吾さん、芽生くんが起きたら……」
「大丈夫、ぐっすり眠っている。今回は思い切って広い部屋にして良かったな」
耳元で囁くと、瑞樹の頬がさらに紅潮する。
「だ、だめですよ……」
「君が嬉しい時は、俺も嬉しい。……だから、今夜はお祝いをさせてくれ」
瑞樹は戸惑いながらも、どこかその言葉を待っていたように、静かに微笑んだ。
「……じゃあ、優しく、少しだけ……」
胸がきゅうっとなるよ。
言葉の端にある信頼が、何より嬉しい。
何も怖がらなくていい。
誰にも見せない顔を、俺にだけ見せてくれる。
それが、どれだけ特別なことか。
「宗吾さん……」
小さく名を呼ばれて、抱きしめる手に力が入った。
唇が触れ合い、体温が重なり合っていく。
肌に触れる度に、瑞樹は小さく息を飲み、時折甘えるように小さく俺の名前を静かに呼んでくれた。
その度に、幸せが満ち、愛しさが溢れた。
胸の尖りをくちづけで啄ばみ、手のひらで滑らかな肌を愛おしむように撫でる。指先がそっと瑞樹の内側へ触れた時、彼は小さく身じろぎながらも、拒まなかった。
互いの存在を深く確かめ合いながら、ひとつになった。
それはただの身体の交わりではなく、言葉よりも深く、確かに愛を伝える行為だった。
たった一度だけのとても静かな逢瀬。
心の底から満たされる、かけがえのない時間だった。
「明日は市内観光もしよう。長崎は初めてだろう?」
「……はい。楽しみです」
「改めて、大賞おめでとう。そして……おやすみ、瑞樹」
愛し合った後は、甘い余韻が眠りを誘う。
互いの身体に残ったぬくもりごと抱きしめて――
しあわせな夜は、こうして静かに更けていく。
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