1794 / 1863

春色旅行 13

 俺たちは、早起きしてパーク内を散歩することにした。  ホテルのエントランスを出ると石畳の小道があり、夜中に降った雨がまだ少し残る空気に、薔薇の香りが甘く混じっていた。  小雨に濡れた薔薇は、まるで夢から醒めたばかりのように咲き誇っている。  俺の横を歩く瑞樹が、うっとりした表情で足を止め、目を細めた。  ホテルで借りた透明の傘をさしているので、表情がよく見える。 「宗吾さん……朝の薔薇って、どうしてこんなに綺麗なんでしょう」  瑞樹の言葉には熱がこもっていた。  花びらに光る露、ふわりと立ち上る香りに、瑞樹の心がときめいているのが伝わってくる。  声はわずかに震え、感動が滲み出ていた。 「夜の間は眠っていたのに、朝になるとこんなに綺麗に咲いて香りを放って……不思議ですね。まるで誰かに会う準備をしてたようです。薔薇はきっと朝が好きなんですね」  瑞樹の瞳は、雫をのせた薔薇に吸い寄せられていた。  小道の突き当たりには貴族の館のような荘厳な建物があった。  その中庭には白い薔薇が一面に咲き誇り、清楚で純真な光景が広がっていた。  瑞樹は再び足を止め、目を細めてその白一色の風景に見渡していた。 「この白薔薇……『柊雪』を思い出しますね」  ふと呟いた言葉に、俺も頷く。 「雪也さんの薔薇だな」 「はい、まるでおとぎ話のように、雪が降り積もったような白でした」  中庭の白薔薇を背景に微笑む瑞樹は、天使のように清らかだった。  昨夜、俺の腕の中で小さく喘いだ君も、朝の清楚な君も大好きだ。    その後、中庭を散策した。  入り組んだ小道が何本かあり、その途中で今度は芽生が歓声をあげた。  視線の先には、ローズピンクの小道があった。  芽生はためらいなくそこへ走っていった。  小道の脇に、小さな洋風の小屋が薔薇に包まれるように建っていた。 「あっ! ここ、知ってる! 夢で来たことがある」  芽生の声は確信に満ちていた。  芽生は小屋の前まで歩き、扉の前でふと立ち止まる。  懐かしさとわくわくが入り混じったような表情を浮かべて。 「あのね、夢の中で、キシさんとルイさんが、ここでバラの手入れをしていたんだよ。ふたりは仲良しでとっても優しかったよ」  俺と瑞樹は芽生の話す内容に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。  芽生の夢が、現実の中にふわりと滲み出してくる場所を見つけた。 「宗吾さん、今、物語と現実が重なったのですね」 「あぁ、これもまた『まるでおとぎ話』の世界だな」 ***  そっとそっと、小屋に近づいてみた。  まるで探検家の気分だよ。  やったー! 『とびらをあけて入っていいよ』って書いてある!  小屋の扉をきぃと音を立てて開くと、花の香りと一緒に、幼い頃に見た夢の続きを見ているような気持ちになったよ。  あの日、夢で迷い込んだのも、今日みたいにバラがキレイなお庭だった。  お庭の奥にはかわいい小屋があって、ルイさんがしゃがんでお花のお手入れをして、キシさんは棚の鉢植えを整理していたよ。  二人とも、なんだかとっても楽しそうだった。  すると……流れ落ちる汗を手でぬぐったルイさんが、そのまま首筋に手を当てて、少しだけ顔をしかめたんだ。 「……うっすら、残ってしまいましたね」  ボクはね、その仕草が気になって聞いてみたんだ。 「ルイさん、そこ、どうしたの?」  ルイさんは少し驚いたように目を見開いた後、ふっと柔らかく微笑んだ。 「メッ、メイくん、いつの間に来ていたの? えっと……これは……薔薇の影ですよ。ピンク色の花の、ね」  その笑顔は、どこか照れくさそうで、少し耳が赤い気がした。  ボクは「ふぅん」と素直にうなずいたけど、その後も気になって、ルイさんの首元を何度か見つめちゃったよ。  ルイさんは、そんなボクの頭をそっとなでて、優しく教えてくれた。 「これはね、とても幸せな証拠なんです」 ……   幸せな証拠……  その言葉が、今もボクの胸の中にふんわりと残っている。 「芽生くんどうしたの? ぼんやりして」 「あ、お兄ちゃん」  現実の世界へ戻ると、ボクは思わずお兄ちゃんの首元を見ちゃった。  白いシャツの襟元から見える肌には何もついてなかったけれど……お兄ちゃんはとても幸せそうだなって思ったよ。  ローズピンクのバラに囲まれた世界を抜けると、またホテルに戻ってきた。 「……また夢で会えるかな、あの人たちに」  ぽつりと呟いた声を、お兄ちゃんはちゃんと聞いていてくれた。 「会えるよ。きっとまた、どこかでね」  空は少しずつ明るくなり、雨もやみそう。 「パパ、今日は何をするの?」  パパは傘をたたんで、お兄ちゃんとボクの手を取ったよ。  三人で手をつなぐの、大好き。 「今日は長崎の市内観光をしよう。眼鏡橋や大浦天主堂も見たいしな」 「わぁい!」 「いいですね」  お兄ちゃんも傘越しに空を見上げて、ふわりと笑ってくれた。 「ほら、もう晴れてくるぞ」  足下の水たまりが、きらりと光っていたよ。  もうキシさんたちの姿は見えなかった。  夢と現実って、重なっては離れていってしまうんだね。  でも夢の世界と今はちゃんとつながっているから、さみしくないよ。  だって二人の幸せを感じるんだ。  ボクらのしあわせの中に――

ともだちにシェアしよう!