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春色旅行 14

 僕たちは雨上がりの晴れ間に誘われるように、長崎の市内観光に出かけた。  江戸時代から国際都市として発展してきた長崎の街並みは、オランダや中国の影響を受けていて、どこかノスタルジックで異国のような雰囲気が漂っている。  ふと僕の育った函館の景色を思い出し、目を細めた。 「瑞樹、今日は自由だ」 「え?」 「俺たちは仕事でいつもスケジュールに追われてるから、今日は気ままに行こうぜ!」 「はい、いいですね」 「さーてとっ、どこに行くかな」  宗吾さんが手を頭上に伸ばして、大きく伸びした先には、古びた看板が風に揺れていた。 「あ、美味しそう……」 「あれ、おいしそうー!」  僕と芽生くんが同時に指をさしたのは、風に揺れるカステラの看板だった。  艶やかな卵色で描かれたカステラの絵と、金色の文字。 「おぉ! 長崎といえばカステラだよな。よし、行ってみよう」  宗吾さんの声に背中を押されて、僕たちは坂道を上った。  朝まで降っていた雨が残る石畳がきらりと光り、どこからか甘い香りが漂ってくる。やがて、橙色の暖簾が静かに揺れる店先にたどり着いた。 「創業百余年」の文字に目がとまり、僕は「わぁ」と小さく声を漏らした。 「老舗ってやつだな」 「僕たちが生まれるずっと前から、ここで焼かれ続けてきた味なんですね。……なんだか、時間の積み重ねに包まれるような感じがします」  年季の入った引き戸を開けると、ふんわりと優しい甘みが鼻腔をくすぐった。卵と砂糖、そしてほんの少し焦がしたような香ばしさ。  まさに、焼きたてのカステラの匂いが充満している。 「いらっしゃいませ。よかったら、お味見なさっていってくださいね」  店の奥から出てきた女性が、笑顔で切り分けたカステラを差し出してくれたので、僕と芽生くんは顔を見合わせて、そっと一切れずつ手に取った。  口に入れた瞬間、ふんわりと柔らかく、それでいて甘すぎず、卵の風味がしっかりと感じられる。底に敷かれたザラメの粒がしゃりっと軽やかな音を立てて、口の中にアクセントを加えてくれた。 「わぁ、ふんわりとしっとりの共存って、すごいですね」 「すっごく、おいしいっ」  芽生くんの目が一段ときらきらと輝いたので、僕も自然と笑顔になった。  宗吾さんはというと、「もう一ついただくよ」と嬉しそうに手を伸ばして、もぐもぐと食べていた。  ふふ、宗吾さんらしいな。 「瑞樹、これ、お土産にしたいな」 「あっ、僕も同じこと思ってました」 「ボクもそう思ったよ。ボクたちだけでなくみんなに食べてもらいたいなって。だってこんなにおいしいんだもん」  ショーケースの中には、金色の文字が印刷された上品な箱や、祝いごとにぴったりな華やかな包みが並んでいた。 「宗吾さんのお母さんと、憲吾さん一家、潤たちにも」 「月影寺にも送ろうぜ。あそこ、甘味好き集団だからさ」 「小森くんの影響力、すごいですよね」 「はは、今度会ったら一回り丸くなってるかも」 「えぇ~? 皆さんシュッとしているので、想像つかないです」 「じゃあ確かめに行くか。6月は紫陽花が綺麗だろうし」 「はい、月影寺ブルーを見に行きたいです」  包みを受け取って外に出ると、僕たちの服にもほのかに甘い香りが移っていた。  とても幸せな匂いだった。 「次はどこに行く?」 「あの……お店の方が、グラバー園が近いって教えてくれました」 「そういえば、あの店員さん、瑞樹には特に親切だったよな」 「えっ、そんな」 「瑞樹はかっこいいから、ちょっと焦った」  宗吾さんの熱いまなざしに照れくさくなって、僕は小さく笑ってごまかした。 (僕には宗吾さんだけです。もうそれ以外は考えられないです)  心の声が届いたのか、宗吾さんは頬を染めて、サンキュっと笑ってくれた。   坂道をのぼると、異国情緒あふれる煉瓦の塀や、洋風の街灯が目に入ってくる。途中で立ち止まると、遠くにキラキラと輝く青い海が見えた。  やがて、グラバー園の入口に到着した。  パンフレットによると、ここはグラバー、リンガー、オルトの三つの洋館住宅と、長崎市内に残っていた歴史的建物を移築した野外博物館だという。  優雅なアーチ窓、緑の蔦が絡まる緑色の洋館が、海を見下ろす高台に佇んでいた。その美しい庭には薔薇が咲き、石畳の小道が続いている。  足元には木漏れ日が揺れて、心までぽかぽかと温かくなる。  小道の先の白い洋館の中に入った瞬間、ハッとした。  この感じって……あ、そうか、ここは―― 「宗吾さん、ここって丈さんの診療所に似ていませんか」 「俺も今そう思ったところだ。あの洋館も、かなり昔に建てられたからな」  僕はそっとスマートフォンを取り出して、白い洋館の写真を撮った。  洋館の白いテラスからは由比ヶ浜の診療所と同じく、青い海が見えていた。  洋くんへ、メッセージを添える。 ―― 洋くん、お元気ですか。この洋館、どこか由比ヶ浜の空気に似ていて、懐かしくなりました。また遊びに行かせてくださいね。 ―― 送信ボタンを押した瞬間、空の青が一段と澄んで輝いた。 まるで洋くんの世界とつながったようだ。    洋館から出ると、ふわりと風が吹いて、薔薇の香りがした。  芽生くんが、僕の隣で嬉しそうに声をあげる。 「お兄ちゃん、ここ、すっごくきれいだね。おばあちゃんにも見せてあげたいな」 その無垢な笑顔に、僕も自然と頬がゆるむ。 「ほんとだね。今度、一緒に来たいね」 「うん!」 「大沼のおじいちゃんとおばあちゃんのデートにもいいよね」 「くすっ、そうだね」  眼前に広がるのは、太陽の明るい光をたっぷり受けた花々と、歴史の刻まれた建物、そしてどこまでも青く澄んだ空と海。  そんな景色の中に、僕たちの家族旅行の時間がそっと溶け込んでいる。  宗吾さんが、僕にだけ聞こえるような声で言った。 「瑞樹、今日の君、すごくいい顔してるな!」 「あっ、ありがとうございます」  心の奥がトクンと跳ねて、くすぐったくも嬉しい気持ちになった。  昔の僕だったら、そんな言葉をまっすぐ受け取ることは出来なかった。でも今は胸を張って受け入れられる。  見上げた空は高く、夏のような日射しが長崎の街を照らしていた。  ――毎日は、小さな幸せでできている。  それを、ちゃんと感じ取れる人でありたい。  旅の途中で出会った味、香り、景色、言葉。  どれも、大切に胸に刻んでいこう。  今の僕には、何気ない一日が、こんなにも愛おしいのだから。  僕たちはグラバー園を出て、次の角を曲がった。  家族そろって、また新しい幸せに出会うための一歩を踏み出そう。

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