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春色旅行 21

 5月2日の朝。  やわらかな陽の光がカーテンの隙間から差し込み、穏やかな空気がホテルの客室を包み込んでいた。  目覚めると、僕は宗吾さんと芽生くんに、まるで抱きしめられるような形で挟まれていた。  あれ、いつの間に僕が真ん中に?  二人ともぐっすり眠っていて、あたたかな寝息が耳元に心地よく響く。  ――くすっ、二人とも寝相悪すぎ。  でも、それすらも愛おしい。  こんなふうに、穏やかに目覚める誕生日って、いいな。  人の温もりが、こんなにも心地よいなんて。  しみじみと思いながら、少しだけ身体を動かすと、宗吾さんが薄く目を開けた。 「……瑞樹、おはよう。いい夢を見たか」  優しい声に、僕は微笑みながら答える。 「はい。よく覚えていないのですが……雲の上の世界だった気がします」 「なるほど。天国のご両親から祝福をもらったんだな。よかったな」  宗吾さんがふっと微笑んで、僕の髪に手を伸ばしてくれる。  その手のひらの温もりは、夢の続きのように優しかった。  導かれるように、さっきまで見ていた夢の内容を思い出した――。 ****  雲の上の世界では、やさしい眼差しが、静かに地上を見つめていた。 「あなた、瑞樹たち、今、長崎にいるんですって」  懐かしい声が聞こえる。  雲の切れ間から顔を覗かせていたのは、僕の母だった。  隣には父の姿もある。 「長崎か。懐かしいな。一度、熊田と撮影旅行に行ったことがあったな。路面電車の音が好きだったよ」  懐かしそうに目を細める父の横で、母が柔らかく微笑む。 「それにしても、あの小さかったみーくんが、もう32歳だなんて、驚いちゃうわ」 「そうだな。俺たちが地上でお別れしたのが30代半ばだっただろう? だから今の瑞樹は、ちょうどあの頃の俺たちと同じくらいか……不思議なもんだな」  母が静かにうなずく。 「でもね、今の瑞樹の顔を見ていると安心するわ。父親のようでもあり、母親のようでもあって……充実した毎日を送っているのが一目で分かるわ」  父も静かに頷いた。 「宗吾くんと、芽生くんに出会えて……本当に良かったな、瑞樹」  二人の間に静かな沈黙が流れる。  けれどそれは、寂しさではなく、満ち足りた想いに包まれた静けさだった。 「見て、今日も瑞樹はちゃんと幸せを抱きしめているわ」 「ははっ、いや、どっちかっていうと瑞樹のほうが『幸せに』抱きしめられてるように見えるけどな」 「そうね。宗吾さんも芽生くんも、寝相が悪いのね。瑞樹が潰れちゃいそう」 「ははは、芽生くんも大きくなったな」 「いつか、瑞樹が一番小さくなりそうね」  ――えー!  僕も一応、174cmはあるんだけど……芽生くんに抜かされちゃうのかな?  そんな未来を想像すると、少しどきどき、わくわくした。  父と母の会話がずっと楽しげなので、僕も幸せな気分になった。  そんな優しくて、あたたかな夢を見ていた。 * * *  さあ、そろそろ地上の朝も動き始めるようだ。 「ん……」  もぞもぞと身体を動かす気配と共に、僕と宗吾さんの間で芽生くんが目を覚ました。まだ眠たそうな目をこすりながら、ふわぁっとあくびをしている。 「おはよう、芽生くん」 「……うん。お兄ちゃん、おはよ〜。……あっ! そうだ! お誕生日おめでとうー!」 「ありがとう」  優しく抱きしめると、芽生くんは僕の胸にもたれかかって、まだ半分夢の中にいるみたいだった。でも、しばらくしてふと顔を上げ、まじまじと僕の顔を見て言った。 「ねぇ、ところで、お兄ちゃんって……いくつになったの?」  くりくりした瞳が真剣そのもので、僕は思わず笑ってしまった。 「えっとね、32歳になりました」 「えっ、さんじゅうに……? そんなに!? びっくりしちゃった」  芽生くんは眉間にしわを寄せて、指を折って数え始める。 「32って……パパより上なの?」  横から宗吾さんが笑いながら答える。 「ははっ、パパの方がもうちょっと上だよ」 「へぇ〜……じゃあ、お兄ちゃんもすっかり大人なんだねぇ」  僕は思わず苦笑いした。  ――とっくに大人なんだけどね。 「うん、まあ……そうかもしれないね」 「へぇぇ〜、すごいな〜……でもね」  芽生くんが僕の肩に顔をくっつけながら、小さな声でぽつりと言った。 「でも、お兄ちゃんは、大人っていうより……やさしい人だよ」  その一言に、胸の奥がきゅっとなった。  宗吾さんもぶんぶんと頭を縦に振って、大きく頷く。 「芽生の言う通りだな。瑞樹は大人っていうより、優しいが似合う人だ」 「……ありがとう、二人とも」  胸の奥が熱くなる。  優しい――  それは、亡き母がよく僕にかけてくれた言葉だった。  今、それを大切な人たちに言ってもらえることが、たまらなく嬉しい。  こんな風に、僕の誕生日はあたたかい言葉でどんどん満たされていく。  きっと今日も、いろんな景色に会えるだろう。  そう思えるだけで、胸の奥があたたかくなる。  大丈夫。  僕はもう大切な人たちと一緒に、前を向いて歩いている。  32歳の僕、よろしく。    家族の優しい言葉とぬくもりに包まれて、1日が始まっていく。

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