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春色旅行 23
機内で目を閉じると、楽しかった旅の記憶が鮮やかに甦ってきた。
ローズガーデンの小径を歩いた朝、僕の写真が大賞に選ばれて震えるほど嬉しかったこと。レトロな市電、新緑に包まれたグラバー園、夜景をスロープカーから見下ろした時の胸の高鳴り。ホテルで迎えた誕生日の朝、思いがけないサプライズケーキに心を打たれた。
どれもかけがえのない時間で、夢みたいに甘く、優しかった。
羽田空港に着陸すると、ほんの数日前にここを飛び立ったことさえ嘘みたいに思える。旅の数日で、どれほど僕の心は満たされたんだろう。たった数日なのに、生き方そのものに光が差し込んだようだ。
到着ロビーで、見慣れた顔が待っていてくれ、ほっとした。
そこにいるのは憲吾さん。
銀縁眼鏡の向こうの優しい瞳が、僕をまっすぐに迎えてくれた。
「おかえり」
落ち着いた誠実な声に、心がじんわり温まる。
憲吾さんはゴールデンウィークは通しで休みなので、芽生くんをこのまま横浜の球場へ連れて行ってくれるそうだ。
僕も宗吾さんも午後から仕事だが、芽生くんには楽しい休日を用意してあげられる。
それだけで救われる気持ちになる。
「おじさん、ただいま!」
芽生くんはためらいなく憲吾さんの胸に飛び込む。憲吾さんは少しもたつきながらも、しっかりと芽生くんを受け止めていた。
いい光景だ。
「いい顔してるな」
「うん、旅行楽しかったよ!」
「よかったな」
芽生くんの成長を見つめる憲吾さんの眼差しが素敵だ。
この人は本当に芽生のことが大好きで、そして僕のことも大切にしてくれている。
だからかな?
いつも憲吾さんと接すると、くすぐったいような嬉しい気持ちになる。
「憲吾さん、これお土産です」
「おぉ……長崎のカステラか。お! 抹茶味か。これ、瑞樹が?」
「はい、抹茶味がお好きだと思って」
「覚えててくれたのか。……ありがとう」
照れくさそうに笑う憲吾さんを見て、胸の奥があたたかくなった。
喜んでもらえてよかった!
「独り占めしてもいいか?」
「もちろん。……くすっ」
「でも母さんと美智にも食べさせたいしな」
「ふふ、それはお任せします」
芽生くんは、野球のことで頭がいっぱいらしい。
「おじさん、今日も野球のルール教えてね!」
「あぁ、任せなさい。球場ではホットドッグも食べるか」
「食べるー!」
この何気ない会話が愛しい。
芽生くんはのびのびと育っているのは、きっとみんなの優しさのおかげだ。
僕もその優しさの輪の中にいられて良かった。
「芽生、たっぷり楽しんでこいよ」
「うん!」
笑顔で力強く返事をしてくれる芽生くんに、僕も元気をもらう。
芽生くんと憲吾さんに見送られ、僕と宗吾さんはモノレールの改札へ向かった。
車内から景色を眺めると、旅立つ前と同じ東京湾とビル群が広がっていた。
でも、どこか違う。
心に深く刻まれた想い出のせいかな?
世界が優しく見えるよ。
「瑞樹、疲れてないか?」
宗吾さんがさりげなく声をかけてくれる。
「ちょっとだけ……でも、すごく楽しかったです」
「よかった。今日は午後からイベントだったな」
「はい、菅野を手伝ってきます」
「……無理するなよ」
「大丈夫です。宗吾さんも会議、頑張ってください」
「任せとけ」
宗吾さんがくしゃっと笑ってくれる。
この明るい笑顔を見るたびに、勇気が湧いてくる。
きっとこれからどんな未来でも、僕はこの人となら歩いていける。
有楽町駅の改札前で、僕たちは向き合う。
「また夜に」
「はい」
ほんの小さく微笑み合うだけで、心がぽっと温まる。
言葉にしなくても伝わる絆があるって、素敵だな。
旅の終わりは日常の始まり。
長崎旅行で積み重ねた思い出は、しっかり心の奥に残っている。
長崎の異国情緒漂う空気も、眩しい朝の光ももう遠い場所にある。
でも、そこにあった幸せの感触は、ちゃんと未来へつながっていく。
思い出を抱えて生きるって、こんなに力になるんだ。
そう思うと、自然と前を向ける。
僕には未来がある。
大切な家族と思い描く未来がある。
それが、どれほど自分を強くしてくれるか。
また頑張ろう。
次の楽しみを見つけるために。
胸を張って、進もう。
『春色旅行』 了
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