1805 / 1863

春色旅行 こぼれ話(憲吾編)

 胸の奥から、わくわく、わくわくと音が聞こえる。  参ったな。  これでは、まるで遠足当日の子どものようだ。  今日は芽生を羽田空港まで迎えに行き、そのまま横浜で野球観戦をする予定だ。  目が覚めてからというもの、頭の中はそのことで一杯だ。 「楽しみすぎる予定だな」  つい声に出してしまい、思わず苦笑する。  ゴールデンウィークに入ってすぐ長崎へ旅立った芽生が、どんな顔で帰ってくるのか。どんな土産話をしてくれるのか。  そう考えるだけで胸が高鳴る。  そろそろ支度をしなければ。宗吾も瑞樹も午後から仕事だと聞いているから、お昼前には羽田に到着するそうだ。  何度も鏡の前に立ち、髪を撫でつけたり、服のしわを伸ばしたり。  気づけば、いつもの仕事用のスーツを着込んでいた。 「おっと……これは、やりすぎか」  苦笑していると、美智が後ろからのぞき込んだ。 「憲吾さん、それで行くの? 野球観戦なのに」 「いや……つい、癖でな」 「まるでデートに行く人みたい」 「ち、違うさ」 「ふふふ」  思わず言い返したものの、美智の笑い声が柔らかく、少し照れくさかった。    最近、こうして穏やかに言葉を交わせることが嬉しい。    優しく穏やかな瑞樹のおかげで、私たち夫婦もまた優しくなれた気がする。  同時に、芽生と過ごす時間が、こんなにも大切で楽しみになっている自分に驚く。  宗吾とは長い間、どこかぎこちない距離を抱えたまま、大人になってしまった。だから兄弟らしい思い出など、ほとんどない。  その埋められなかった後悔を、宗吾の息子である芽生が静かに癒やしてくれている。宗吾と交わしきれなかった気持ちを、芽生を通して分かち合っているのかもしれない。  結局スーツのまま家を出ることにした。  この服装が、一番自分らしくいられるから。 「美智、行ってくる」 「いってらっしゃい。楽しんできてね」 「……ああ」  笑顔で送り出してくれる妻に見送られ、家を出た。  車を走らせる間も、胸の高鳴りは収まらなかった。  芽生がどんな笑顔で「おじさん!」と声をかけてくれるか。  想像するだけで、まるで少年のように浮き立つ。  窓の外の青空さえ、今日は一段と眩しく見えた。  羽田空港の到着ロビーに着き、案内板を確かめながら深呼吸をひとつ。  ほどなくして、見慣れた顔が目に入った。  芽生は宗吾と瑞樹の間に立ち、こちらを探している。  視線が合うと、ぱっと笑顔が弾けた。 「おじさん! ただいま!」  その声に胸の奥がじんわりと温かくなる。  駆け寄ってくる芽生を、少しぎこちなく抱きとめた。  また少し大きくなったのか。  成長の速さを感じた。 「いい顔だな」 「うん、旅行すっごく楽しかった!」 「それはよかった」 「おじさんに話したいこと、いっぱいあるんだ!」  目を輝かせる芽生を見ていると、こちらまで笑顔になる。  瑞樹からのお土産も受け取った。  自分の好みを覚えてくれていたことが嬉しくて、胸が熱くなる。 「じゃあ、芽生と行ってくる」 「おじさん、早く行こうよ!」 「ああ」  芽生の手を取り、歩き出す。  その小さな手の温もりが、兄弟の間に残してしまった空白を、そっと繋いでいくようだった。  宗吾と瑞樹、そして芽生。  この三人の絆を、私も大切にしたい。  車中で、芽生のおしゃべりは止まらなかった。  バラがきれいだったこと。  瑞樹の写真がとても素敵だったこと。  長崎の夜景が美しかったこと。  市電で町を巡ったこと。  一つひとつに目を輝かせて語る芽生を見ていると、胸の奥が温かくなった。 「おじさん、今日はどっちが勝つと思う?」 「うーん、どうだろうな。芽生の応援しだいかもしれないぞ」 「ボクね、北海道カムイファイターズを応援する! お兄ちゃんの故郷だから!」 「おじさんも賛成だ」  芽生の無邪気で真っ直ぐな笑顔に、こちらも笑みがこぼれる。  スタジアムが近づくにつれ、街の空気は野球一色に変わっていく。   ユニフォーム姿の人々、活気のある売店、チームカラーの旗。  その熱気に、私たちも胸が弾んだ。  駐車場で車を降りた芽生が、目を輝かせながら周囲を見渡した。 「すごい人だね!」 「迷子にならないように気をつけるんだぞ」 「うん! おじさんのそばから離れないよ!」  その言葉が、なんとも言えず嬉しかった。  観客席に入ると、大きなグラウンドが目の前に広がる。  芽生は一瞬、息を呑むように見つめた。 「広いね!」 「立派だろう。選手たちが本気で戦う場所だからな」 「うん!」  座席に荷物を置き、売店で買ったホットドッグを芽生に渡すと、 「わあ、おいしそう! いただきます!」と無邪気に頬張った。 「おじさん、パパとも野球を観に来たことある?」  ふいに、少し胸が痛む質問をされて驚いた。 「……ないな」  正直に答えると、芽生は真剣な眼差しでこちらを見つめた。 「じゃあ今度はパパも誘おうよ。お兄ちゃんも! おじさんだって、これから叶えられることいっぱいあるよ」  その言葉に、胸がまた熱くなる。 「……まったく、その通りだな」 「ボクが橋渡しになるから!」 「芽生は頼もしいな」 「それ、一番うれしい言葉だよ」  芽生の成長を、これからもずっと見守っていける幸せ。  試合開始のアナウンスが響き、芽生と並んで座りながら、この子の未来がますます楽しみになった。

ともだちにシェアしよう!