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春色旅行 こぼれ話(憲吾編)
胸の奥から、わくわく、わくわくと音が聞こえる。
参ったな。
これでは、まるで遠足当日の子どものようだ。
今日は芽生を羽田空港まで迎えに行き、そのまま横浜で野球観戦をする予定だ。
目が覚めてからというもの、頭の中はそのことで一杯だ。
「楽しみすぎる予定だな」
つい声に出してしまい、思わず苦笑する。
ゴールデンウィークに入ってすぐ長崎へ旅立った芽生が、どんな顔で帰ってくるのか。どんな土産話をしてくれるのか。
そう考えるだけで胸が高鳴る。
そろそろ支度をしなければ。宗吾も瑞樹も午後から仕事だと聞いているから、お昼前には羽田に到着するそうだ。
何度も鏡の前に立ち、髪を撫でつけたり、服のしわを伸ばしたり。
気づけば、いつもの仕事用のスーツを着込んでいた。
「おっと……これは、やりすぎか」
苦笑していると、美智が後ろからのぞき込んだ。
「憲吾さん、それで行くの? 野球観戦なのに」
「いや……つい、癖でな」
「まるでデートに行く人みたい」
「ち、違うさ」
「ふふふ」
思わず言い返したものの、美智の笑い声が柔らかく、少し照れくさかった。
最近、こうして穏やかに言葉を交わせることが嬉しい。
優しく穏やかな瑞樹のおかげで、私たち夫婦もまた優しくなれた気がする。
同時に、芽生と過ごす時間が、こんなにも大切で楽しみになっている自分に驚く。
宗吾とは長い間、どこかぎこちない距離を抱えたまま、大人になってしまった。だから兄弟らしい思い出など、ほとんどない。
その埋められなかった後悔を、宗吾の息子である芽生が静かに癒やしてくれている。宗吾と交わしきれなかった気持ちを、芽生を通して分かち合っているのかもしれない。
結局スーツのまま家を出ることにした。
この服装が、一番自分らしくいられるから。
「美智、行ってくる」
「いってらっしゃい。楽しんできてね」
「……ああ」
笑顔で送り出してくれる妻に見送られ、家を出た。
車を走らせる間も、胸の高鳴りは収まらなかった。
芽生がどんな笑顔で「おじさん!」と声をかけてくれるか。
想像するだけで、まるで少年のように浮き立つ。
窓の外の青空さえ、今日は一段と眩しく見えた。
羽田空港の到着ロビーに着き、案内板を確かめながら深呼吸をひとつ。
ほどなくして、見慣れた顔が目に入った。
芽生は宗吾と瑞樹の間に立ち、こちらを探している。
視線が合うと、ぱっと笑顔が弾けた。
「おじさん! ただいま!」
その声に胸の奥がじんわりと温かくなる。
駆け寄ってくる芽生を、少しぎこちなく抱きとめた。
また少し大きくなったのか。
成長の速さを感じた。
「いい顔だな」
「うん、旅行すっごく楽しかった!」
「それはよかった」
「おじさんに話したいこと、いっぱいあるんだ!」
目を輝かせる芽生を見ていると、こちらまで笑顔になる。
瑞樹からのお土産も受け取った。
自分の好みを覚えてくれていたことが嬉しくて、胸が熱くなる。
「じゃあ、芽生と行ってくる」
「おじさん、早く行こうよ!」
「ああ」
芽生の手を取り、歩き出す。
その小さな手の温もりが、兄弟の間に残してしまった空白を、そっと繋いでいくようだった。
宗吾と瑞樹、そして芽生。
この三人の絆を、私も大切にしたい。
車中で、芽生のおしゃべりは止まらなかった。
バラがきれいだったこと。
瑞樹の写真がとても素敵だったこと。
長崎の夜景が美しかったこと。
市電で町を巡ったこと。
一つひとつに目を輝かせて語る芽生を見ていると、胸の奥が温かくなった。
「おじさん、今日はどっちが勝つと思う?」
「うーん、どうだろうな。芽生の応援しだいかもしれないぞ」
「ボクね、北海道カムイファイターズを応援する! お兄ちゃんの故郷だから!」
「おじさんも賛成だ」
芽生の無邪気で真っ直ぐな笑顔に、こちらも笑みがこぼれる。
スタジアムが近づくにつれ、街の空気は野球一色に変わっていく。
ユニフォーム姿の人々、活気のある売店、チームカラーの旗。
その熱気に、私たちも胸が弾んだ。
駐車場で車を降りた芽生が、目を輝かせながら周囲を見渡した。
「すごい人だね!」
「迷子にならないように気をつけるんだぞ」
「うん! おじさんのそばから離れないよ!」
その言葉が、なんとも言えず嬉しかった。
観客席に入ると、大きなグラウンドが目の前に広がる。
芽生は一瞬、息を呑むように見つめた。
「広いね!」
「立派だろう。選手たちが本気で戦う場所だからな」
「うん!」
座席に荷物を置き、売店で買ったホットドッグを芽生に渡すと、
「わあ、おいしそう! いただきます!」と無邪気に頬張った。
「おじさん、パパとも野球を観に来たことある?」
ふいに、少し胸が痛む質問をされて驚いた。
「……ないな」
正直に答えると、芽生は真剣な眼差しでこちらを見つめた。
「じゃあ今度はパパも誘おうよ。お兄ちゃんも! おじさんだって、これから叶えられることいっぱいあるよ」
その言葉に、胸がまた熱くなる。
「……まったく、その通りだな」
「ボクが橋渡しになるから!」
「芽生は頼もしいな」
「それ、一番うれしい言葉だよ」
芽生の成長を、これからもずっと見守っていける幸せ。
試合開始のアナウンスが響き、芽生と並んで座りながら、この子の未来がますます楽しみになった。
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