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春色旅行 こぼれ話(宗吾編)④
長崎から羽田に到着し、そのまま職場へ直行した。
空港の人混みをすり抜けて電車に乗り込み、蒸し暑い東京の空気にうんざりしながらも、旅行の荷物を抱えて会社のビルに入る。
俺の机の上には、当然のように書類が山のように積まれていた。乱雑に投げ込まれたファイルの山に、思わず眉をひそめる。
仕方がない。
休んでいた分の皺寄せだ。
――分かってはいるが、やっぱりきつい。
バリバリと仕事をこなしても一向に減らない仕事量に、つい、小さなため息を漏らしてしまった。
その時、上司に咳払いされた。
「滝沢は休んでいたんだから、当たり前だ。ほら、これもやっておけ」
投げつけるような冷たい言葉に、胸の奥がぐっと苦くなった。
言い返したい気持ちをぐっと飲み込み、ただ無言で頷く。
大人になるって、たぶん、こういうことなんだろう。
旅行が楽しかった分、堪えるな。
とはいえ、この大きな体を動かすには何か腹に入れなきゃ持たない。時計を見れば、もう昼はとっくに過ぎている。
休憩らしい休憩も取れず、気づけば腹が空きすぎて手も震えていた。
やれやれ、子供みたいだな。
職場の重たい空気から抜け出したくて、一度外に出て深呼吸をした。
駅の高架下にある古びたラーメン屋にふらりと入ると、狭い店内に濃厚なスープの香りが充満していた。厨房の奥では年季の入った鍋から湯気がもくもくと立ち上っている。
その匂いに一気に食欲が刺激された。
「こんな時は腹いっぱいにして、嫌なことは忘れよう! くよくよすんな、宗吾!」
「いらっしゃい!」
威勢のいい声で年老いた店主に迎えられ、カウンターにドスンっと腰を下ろす。
注文したのは醤油ラーメンの大盛り。テーブルの水を一気に飲み干すと、張りつめていた心が少しほどけていった。
待っている間、手持ち無沙汰で古いテレビに目をやると、野球の中継をしていた。
横浜のスタジアムか。ちょうど今、兄さんと芽生が観戦している試合だ!
テレビの中で、北海道カムイファイターズのピッチャーが打者に立ち向かっている。
華奢な体格に見えるのに、投げる球は速く力強い。その凛とした姿に、ふと瑞樹を思い出す。
可憐で繊細に見えて、その芯には強さを秘めている瑞樹。今頃、去年に引き続き、白金のイベント会場で汗水たらして頑張っているだろう。
俺も負けていられない。
そう思うのに、心がすっきりと晴れない。
自分を見つめなおすと、あることに気づいた。
そうか、俺も野球に行きたかったのか。
兄さんと芽生と、あのスタジアムで一緒に声を張り上げて応援したかったんだ。
……そんな自分に驚いてしまった。
俺、やっぱりちょっと弱ってんな。
「はい、お待ち!」
熱々のラーメンが目の前に置かれた。醤油スープの香りが濃厚で、縮れた麺はスープとよく絡みそうだ。
勢いよくすすり込むと、塩気と醤油のコクが疲れた体にじんわり染み渡っていった。あぁ、心に温もりが戻ってくるようだ。
ふとテレビに目を戻すと、応援席がクローズアップされていた。
「ん?」
思わず、声が漏れた。
あれは芽生だ!
兄さんの隣で、なぜか兄さんとおそろいのユニフォームを着て、元気いっぱいに跳ねている。
兄さんもネクタイを外し、腕まくりして声を張り上げているぞ。
なんだよ兄さん、あんなに真剣に応援する人だったか?
驚くと同時に、めちゃくちゃ元気をもらったぞ!
兄さんが変わろうとしている。
瑞樹に出会ってから、あの人も俺たちに少しずつ歩み寄ろうとしてくれているんだ。それが嬉しい。
ならば、俺にも出来ることがあるんじゃないか。芽生の父親としてだけでなく、一人の男として、弟として、家族として。
もう一度ラーメンをすすると、塩気に底力が湧いてきた。
兄さんに「一緒に野球観戦に行こう」と俺から誘ってみたくなった。
こんなことを素直に思えるのは、やっぱり瑞樹と出会ったおかげだ。
瑞樹のように……
風に逆らわず、風に吹かれてみよう。
流れに身を任せるのも悪くない。
ラーメンの湯気とともに、胸の奥にあったわだかまりが溶けていく気がした。
この夏は、兄さんと野球場で声を張り上げて応援しよう。
少年のように明るく爽やかな夢が、胸に膨らんだ。
よし、気合を入れて、仕事を片付けよう。
愛しい家族が待っている。
歩み寄りたい人がいる。
だから、前へ進もう。
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