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春色旅行 こぼれ話(宗吾と瑞樹)⑥

 長崎旅行から戻ると、仕事に追われるように、いつもの日常が始まった。  宗吾さんも僕も、休み明けのスケジュールはぎゅうぎゅうで、あっという間に夕方になっていた。  ほっと一息つく間もなく、僕は芽生くんを迎えるために、宗吾さんの実家に向かった。  初夏のような日差しを浴びながらの屋外作業、疲れていないといえば嘘になるが、芽生くんにもうすぐ会えると思うと不思議と力が湧いてくる。  足取りが早くなると、大きな影が横に並んだ。 「あっ」 「瑞樹、おつかれさん」    影は宗吾さんだった。彼も膨大な仕事をこなしてきたのだろう。疲労の色が隠せない様子だった。もちろん悟られまいとしているが、僕にはわかる。 「宗吾さんも大変でしたね」 「えっ」 「お疲れ様です」 「あぁ、そうだな、ちょっと大変だった。だが、瑞樹にそう言ってもらえると報われるよ」  あ、この言葉、嬉しいかも。  僕だって男だ。  宗吾さんに甘えてもらいたい。  最近、もう少し頼れる男になりたいという、今までにない欲が生まれた。  僕は、このような気持ちになるなんて、不思議な気分だ。  そうだ、今度月影寺の洋くんに相談してみようか。 「おかえりーっ!」  宗吾さんのご実家の玄関の扉を開いた瞬間、満面の笑顔で飛び出してきた芽生くんが、僕の胸に抱きついてきた。  柔らかい頬のぬくもりに、心がふっと緩む。 「ただいま、芽生くん、野球楽しかった?」 「うん! 憲吾おじさんにあきらめちゃだめだって教えてもらったんだ。ボクがんばって、いっぱい応援したよ」 「そうか、よかったね」 「芽生、会いたかったぞー」  宗吾さんはそのまま芽生くんを抱き上げると、くすぐるように笑って頬をすり寄せた。 「お父さんってば、ボクもう赤ちゃんじゃないってば!」 「いんや、まだまだ赤ん坊だー」 「わぁ、ちくちくおヒゲがあたるってば」 「ははは」  ああ、この光景だけで、今日一日の疲れが吹っ飛ぶよ。  玄関先では憲吾さんが、落ち着いた声で迎えてくれた。 「二人ともよく頑張ったな。旅行からいきなり職場はきつかっただろうに」    優しい労いに癒された。 「ありがとうございます」 「ほんと、よく働くおふたりさんだこと」  宗吾さんのお母さんも、台所から顔を出してくれた。  その手には、すでに湯気の立つ味噌汁の椀が。  急にお腹が空いて「ギュルル」と鳴ってしまい、赤面した。 「あらあら腹ペコさんなのね。さぁ、ごはん、ですよ。あったかいうちにお食べなさい」  食卓には、季節の野菜をふんだんに使ったおかずが並べられていた。  煮物に焼き魚、つやつやほかほかの炊きたてごはん。  その端っこに、控えめに置かれていたのは、美智さんお手製のコーヒーゼリー。 「あ、これ」 「瑞樹くん好きかなって思って」 「はい、好きです。正確には僕の亡くなった父の好物でした」  小さなカップに入った、きれいな二層のゼリー。  甘すぎない、大人の味のするものだ。  そこに、あーちゃんがヨチヨチとやってきて、僕の膝にちょこんと乗り、にこにこ笑った。 「みーくんだぁ、みーくんしゅき」  お母さんが「重くないの?」と笑うと、宗吾さんが「重たいだろう、こっちにおいで、あーちゃん、なぁ、おいで~」と猫なで声。 「まぁ、気持ち悪い誘いね」 「ひどいな、母さん」 「うちの娘は王子さまが好みで、オオカミはいやだと言っている」 「えぇ、兄さんまでひどいな」 「はははっ」 「ふふっ」 「くくくっ」  何気ない風景。  屈託のない笑い声。  本当にただの、何でもない日常のひとこま。  だが、なぜだろう?    僕は胸が熱くなって、箸を持ったままふと手が止まった。  この一秒一秒が、愛おしくて、泣いてしまいそうだ。 「……瑞樹、あなた、とてもいい旅をしてきたのね」  宗吾さんのお母さんが、優しく僕の肩をぽんと叩いた。 「旅は心の栄養になるのよ。あなたはきっと、沢山の気づきを持ち帰ってきたのね」 「……はい」 「どんどん旅に出なさい。あなたが笑顔でいてくれるのが、いちばん嬉しいから」  言葉が胸に沁みて、思わず目を伏せる。 「家族で旅行できる期間なんて、振り返ってみればほんの少しの間なのよ。芽生もすぐに大きくなるわ。べったり一緒にいられる時は、きっと思っているより短いの」 「……そうですね。だからこそ、今を大事にしたいです」 「瑞樹、いつでも私たちを頼ってね。ここはあなたのもう一つの実家よ」 「……はい、ありがとうございます」  帰る場所が一つじゃないことが、こんなにも心が満たされるなんて。  宗吾さんと築いた東京の暮らしが愛おしい。  憲吾さんとお母さんの提供してくれるあたたかい居場所。  どちらも芽生くんという存在がつなげてくれた縁だ。  明日から、益々忙しい日々になるだろう。  でも、たまにはこうして立ち止まって、誰かの「おかえり」に甘えてみたいな。  僕は自分の心にそっとそう言い聞かせた。  こんな風に考えられるのは、僕の心が満ちているからだ。  きっと、きっと。

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